愛知電気鉄道電7形電車
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愛知電気鉄道電7形電車(あいちでんきてつどうでん7がたでんしゃ)は、名古屋鉄道(名鉄)の前身の一つである愛知電気鉄道によって1926年(大正15年)に9両が製造され、会社合併により名古屋鉄道に引き継がれた、半鋼製車体を採用する鉄道車両(電車)である。また電7形の製造と同時に同形車体を備える制御車附3形が1両製造された。
注釈
- ^ 有松裏 - 新知立(仮)間9.2 kmを1923年4月1日、新知立(仮) - 西岡崎間11.4 kmを1923年6月1日、西岡崎 - 東岡崎間1.3 kmを1923年8月8日に順次開業した後、東岡崎 - 小坂井間26.1 kmを1926年4月1日に一挙に開業、最後に残った伊奈 - 吉田間5.0 kmを1927年6月1日に開業してようやく全線開業にこぎ着けている[5]。
- ^ 神宮前から矢作川付近までは概ね東海道本線と並行して敷設されているが、それ以東は矢作川を渡って岡崎の市街地へ到達し、ここから豊橋まで本宿・赤坂・国府と内陸寄りの集落を結ぶ経路を採る。このため若干経由地は異なるものの直進して矢作川を渡らず川沿いに南下し、蒲郡から海岸沿いに豊橋に至る経路を選定した東海道本線よりも忠実に旧東海道をトレースする経路[20]となっている。
- ^ 第二次世界大戦前の日本の郊外電気鉄道では、最急勾配は33パーミルとするのが一般的で[26]、蒸気機関車を使用する鉄道でも通常は25パーミルから40パーミルまでと定められていた[27]。
- ^ 75ポンドレールは日本では1904年の日露戦争後、輸送量が増大したことに対応し、国鉄での採用が1906年に始まった[29]。そのため、1914年の東京駅開業時[30]をはじめ、豊橋線建設の時点で国鉄の幹線系統においては普及が進んでいたが、そうした幹線系統ですら側線などには60ポンド(30 kg)レール以下の軽い軌条を採用する例が少なくなかった[30]。1915年の時点では「普通の60封度、軌条」という記述が業界紙で使用されており[31]、豊橋線全通直前の1925年に鉄道省大臣官房研究所が編纂した分岐器の明細図では37 kgレールと30 kgレールに対応する図のみが掲載されていて、100ポンド(50 kg)レールの掲載はない[32]。
- ^ 軌道中心間隔は1,067 mm軌間の地方鉄道では条件によらず3.35 m以上、国鉄でも停車場外で3.6 m以上と定められていた[33]。
- ^ 有松線→岡崎線の架線電圧昇圧は1925年6月15日実施。一方、常滑線の昇圧実施は1929年1月18日である[39]。
- ^ メーカーである日本車輌製造が発行したカタログでは、本形式[46]および本形式とほぼ同一設計によって新造された伊勢電気鉄道デハ121形[47]、それに電7形を上回る大型全鋼製高速電車となった新京阪鉄道P-6形(初期製作グループ)[48]の3形式については他の形式で用いられていた「郊外用高速度電動客車」ではなく、「急速度用電動客車」と特に銘打たれていた。
- ^ 従来の形式付与ルールを適用すれば「電8形」とされるべき車両であるが、本形式以降は形式:電x形、記号番号デハxxxxという形式番号の付与ルールが改められたらしく、初号車の記号番号がそのまま形式として扱われるようになっている[4]。
- ^ 神戸市電気局との共同開発となった同局G形(半鋼製)では川崎造船所が1923年5月[57][58]、日本車輌製造が同年8月[59]に納入しており、さらに全鋼製車両では川崎造船所が前述の阪神急行電鉄510号を1925年11月に、日本車輌製造は初の全鋼製車として東武鉄道ホハ12形ホハ59・60を翌1926年11月[60]に納入しており、いずれも川崎造船所が日本初の栄誉を得ている[61]。
- ^ アメリカ流の技術を導入して鋼製車実用化に向けて研究開発を行っていた過程で、高温多湿な日本の気候に合わせて開発された。その優れた防錆性能ゆえに特許取得が(鋼製車の)広範な普及の妨げになるとして特許申請取り下げを鉄道省から勧告され、日本車輌製造が勧告に従って特許申請を取り下げた後、日本国内で標準塗装法として鉄道車両のみならず鋼製品の塗装全般に広く普及したとされる[62]。
- ^ 日本車輌製造は東武鉄道へ多数の車両を納入したが、この2両以外は全て天野工場由来の東京支店製であった[60]。
- ^ 後の豊橋鉄道モ1401。デハ3090の図面が図面番号 外 イ 1032で1926年4月10日作成[4]、デテハ1001の図面が図面番号 外 イ 1008で1926年4月15日作成[67]となっており、デハ3090との間で図面作成日付と図面番号の順序の入れ替わりが生じていて設計製作時期が重なっていたことを示している。
- ^ 狭幅とすることで乗務員扉とそれに隣接する側窓が干渉しないように設計されている[49]。愛知電気鉄道(および傍系の知多鉄道[77])では続くデハ3300形[78]以降でも車掌台側の乗務員扉を通常よりも広幅の引戸とし[77]隣接する側窓を戸袋窓とする[77]ことで乗務員室からの手小荷物の積み卸しが容易となるように設計していた[71]が、電7形および附3形において開き戸ではなく狭幅の引戸を採用した理由は定かではない。
- ^ HL車がその大半で後述するWH-556-J6や三菱電機MB-98、芝浦SE-132などの端子電圧750 V時1時間定格出力が75 kW級の電動機を搭載したのに対し、AL車では東洋電機製造TDK528/5Fや芝浦SE-139といった端子電圧750 V時1時間定格出力が110 kW級の電動機を搭載した[89]。
- ^ ただし、デボ800形に実際に搭載されたのはWH社あるいはそのライセンシーである三菱電機製のAL電空単位スイッチ式自動加速制御器[88]ではなく全く系譜の異なるイギリス・イングリッシュ・エレクトリック (EE) 社系の「デッカー・システム」と総称される技術に基づいて設計製作された、東洋電機製造製のES系電動カム軸式自動加速制御器である[90]。
- ^ 大阪鉄道在籍車に搭載されていたこの電動機を承継した近畿日本鉄道は、1960年に有料特急「かもしか」号を南大阪線・吉野線に設定する際にその専用車両として伊勢電気鉄道デハニ231形由来の車体を整備したものに余剰となっていたこの電動機を搭載したモ5820形を投入している。低出力を補うために全電動車方式が採用されていたが、これは1960年代初頭の時点でもなおこの電動機の走行特性が速達列車での使用に耐えるものであったことを示している。
- ^ 日本の高速電車における弱め界磁制御の導入は阪神急行電鉄51形(製造初年:1920年。架線電圧直流600 V、ゼネラル・エレクトリック(GE)社製PC-5電空カム軸式自動加速制御器搭載)を嚆矢とする[110]が、本格的な普及は149.2 kW級電動機の搭載で最高速度120 km/hを達成したとされる新京阪鉄道P-6形(1927年)[111]を筆頭に阪和電気鉄道モタ300形(1929年)[112]、参宮急行電鉄デ2200形(1930年)[111]、そして、鉄道省モハ32形(1930年)[45]と1920年代後半以降となった。
- ^ この歯数比と車輪径(860 mm)、それに電動機の全界磁定格回転数(985 rpm)の関係から全界磁定格速度は約52 km/hとなる[113]。
- ^ 弱め界磁制御機能の付与にあたっては、元々この機能に対応しない電動機の場合、界磁コイルを一旦解いてその途中に回路短絡用タップを立てて巻き直し、そのタップから界磁接触器まで配線を引き出さねばならず大改造が必要であった。名古屋鉄道では本来弱め界磁機能搭載で竣工していたはず[114]の3880系においても、東京急行電鉄時代に界磁巻線から引き出された配線を撤去していた[114]ためにこの機能の再整備を断念した[114]、という経緯があった。
- ^ 台車が、本形式のBW-84-27Aを模倣しつつ車体大型化に合わせて心皿荷重上限を16 tへ拡大した日本車輌製造D16[78]と、従来と同じボールドウィン製だが改良新型のAA形で、心皿荷重上限が35,000ポンド(≒15.875 t)に引き上げられたBW-84-35AA[103]の併用となった以外は制御器も主電動機も全く同一[104]である。
- ^ 例えば阪和電気鉄道は電7形が完成した1926年7月8日に「鉄道工事施工認可申請書」を鉄道省に提出し、その中で使用する電車の仕様を説明しているが、そこでは150馬力電動機4基を搭載する15 m~16 m級と推定される96人乗りの車両が示されていた[132]。しかしその1年後の1927年7月23日には設計変更を申請し、19 m級で200馬力電動機を4基搭載する車両を製造することとしている[132]。こうした後発他社での動向から、1926年から1927年にかけての時期に狭軌向け電車用200馬力級電動機とそれを搭載した大型高速電車、それにそれらを走らせるための重軌条が日本国内で実用化されたことがわかる。
- ^ 第二次世界大戦後に撮影されたモ3209の写真(福島隆雄撮影)[133]では、モ3200形と旧愛知電気鉄道や三河鉄道などに由来するHL制御器搭載の木造制御車が編成を組成し、Mc-Tc+Mc-Tcの4両編成で急行運用に充当されていたことが確認できる。またこの時期には従来妻面の車掌台側腰板部に1灯のみ設置であった標識灯が妻面腰板部左右に各1灯設置となり、貫通路上部周辺に幌吊り用金具や水切が追加設置されていた[133]。
- ^ いくつかの文献でこの車体新造が「名古屋電車製作所」にて行われたとされているが、同社は1927年に日本車輌製造の傘下に入った後、1929年8月に業態転換して「名古屋自動車製作所」に改名[138]、以後はバスなどの自動車車体生産専業メーカーとなった[139]が、戦災で工場が壊滅し第二次世界大戦後は再興されることなく消滅している[140]。このため、デニ2001の車体が戦後1953年に「名古屋電車製作所」名義で製造された可能性はほぼ皆無である。同車の車体については他に「名古屋車両工業」製とする文献[137]や「名古屋車両」製とする文献[70]が存在するが、挙げられたメーカー2社の概要を含め、正確な事情は明らかになっていない。
- ^ 運輸省による木造車淘汰を求める通達は1951年の桜木町事故やその直後に起きた大阪市営地下鉄1号線での車両発火事故など、短期間で車両火災事故が頻発した事への反省から、特に混雑度の高い都市部の路線で木造車を運用する大手私鉄各社に対して実施された[143]。
- ^ 3700系への供出直前の1964年の時点で、ボールドウィン84-27-A台車は他車の装着する日本車輌製造D16台車と比較してサイドフレーム曲がりの他各部の曲がり(変形)が多く状態が悪かったとされる[147]。もっとも、この台車はデハ3090用のものも含め11両分全てが後に3700系や3730系・3770系に流用されており[115][152][153]、状態が悪かったとされる割に再整備の上で全て無駄なく活用されている。
- ^ 27MCB-1の大荷重対応版。サフィックスに示される数字は枕ばねに用いる重ね板ばねの列数を示し、27MCB-2では2列の重ね板ばねを備える[160]。
- ^ 名古屋鉄道から木造車が全車廃車された1966年の時点で、木造車が残っていたのは揖斐線と瀬戸線の2線区[10]で、共に直流600V電化[163]かつ本線系統との接続駅を持たない孤立線区[164][165]であった。
- ^ 2013年の時点でもなお、喜多山付近に半径166 mのS字曲線が残存しており[176]、瀬戸線向け最新鋭車の4000系が本線系一般車で標準となっている軽量のボルスタレス台車ではなく、重くとも転向性能に優れるボルスタ付き台車を装着する原因となっている[177]。
- ^ ガントレットは戦前には久屋の西、久屋橋の下にももう1か所存在した[178]が、これは1935年にそこで起きた電車の正面衝突事故が原因で改良工事が実施され、廃止となっていた[179]。
- ^ 機器を中心に考えると、モ600形の老朽化した木造車体を中古の半鋼製車体に交換・更新したことになる。
- ^ このモ900形およびその機器流用元となったモ600形は、瀬戸線転属前の制御車3形式が電動車時代から搭載していたHL制御器とは制御シーケンスに互換性のない「デッカーシステム」由来の東洋電機製造ES-155電動カム軸自動加速制御器を搭載していた[187][188]。
- ^ ミュージックホーンの搭載などは未施工のままであった[190]。
- ^ この時点でなお、瀬戸線にはク2320形一般車を筆頭としてドアエンジンさえ設置されていない前近代的な接客設備の車両が未だ多数在籍し[195]、サービス面や保安面で非常に深刻な問題となりつつあった。これら3700系10両は冷房こそ未設置であったもののそれ以外は充分な水準の接客設備を備えており、『瀬戸線近代化の第一歩』[196]として重要な役割を果たした。もっとも本形式やモ900形と比べて大型の17 m級車体を備える3700系の瀬戸線入線に当たっては、車両限界や急曲線区間通過などの実地確認[190]や、それに伴う調整などさまざまな問題が存在した[190]とされる。
出典
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- ^ 『名鉄瀬戸線』p.11
- ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻370号 pp.102-103
- ^ 『名鉄瀬戸線』p.33
- ^ 『名鉄瀬戸線』p.36
- ^ 『名鉄瀬戸線』p.32
- ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻370号 pp.103・106
- ^ a b c 『鉄道ピクトリアル』通巻771号 pp.118-119
- ^ 交友社『鉄道ファン』1997年7月号 通巻434号 p.175
- ^ 『鉄道ピクトリアル』通巻771号 p.248
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