吉田栄三とは? わかりやすく解説

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よしだ‐えいざ【吉田栄三】

読み方:よしだえいざ

18721945文楽人形遣い初世大阪生まれ昭和2年(1927)より文楽座人形座頭(ざがしら)。初め女方遣ったが、のち立役(たちやく)に転じた


吉田栄三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/18 05:50 UTC 版)

初代吉田栄三(よしだ えいざ 明治5年4月29日1872年6月4日) - 昭和20年(1945年)12月9日)は文楽人形遣い。本名:柳本 栄次郎。

人物

大阪府東区濃堂町に玩具の人形作りの子に生まれた。母方の叔母が女義太夫で、その叔母が人形遣いの吉田栄寿と結婚したことから1883年6月大阪・日本橋沢の席の初開場に2代目吉田光栄の名で初舞台。特定の師匠をもたず、稲荷座などにも出入りしながら、伝統的技術や型を学んだ。1892年彦六座で栄三と改名。1898年に御霊文楽座に移り、初世玉造と紋十郎から厳しく鍛えられた。1907年紋十郎の代役で、『和田合戦』の「市松初陣の段」が大好評で、やがて文楽座の花形となって活躍、1927年桐竹紋十郎没後、長い間空席だった人形遣いの座頭となる。娘や二枚目を得意としたが座頭となったのを機に、女形を3代目吉田文五郎に譲って立役に転じた。

『天の網島』の治兵衛、『沼津』の重兵衛、『良弁杉由来』の良弁などは、渋く内面的な演技として、近世の名人といわれた。栄三の演技は、常に華麗な女形の文五郎と対比され、1943年に文五郎とともに朝日文化賞を受けた[1]

1945年3月の米軍による空襲により、文楽座は炎上し、栄三の自宅も焼失した。

1945年12月9日、奈良の疎開先で栄養失調により死去、享年74[1]大阪市天王寺区下寺町超心寺に墓がある[2]

溝口健二の映画「浪花女」に映像が残されている。

「吉田栄三自伝」がある。

脚注

  1. ^ a b 「文楽人形遣い名人」 吉田栄三 (児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ)”. blog.izumishobo.co.jp. 2020年2月7日閲覧。
  2. ^ 超心寺山門”. 大阪文化財ナビ. 2024年2月18日閲覧。



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