台湾民主国
台湾民主国(1895年5月 - 10月)
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「台湾の政治史」の記事における「台湾民主国(1895年5月 - 10月)」の解説
「台湾民主国」も参照 日清戦争(1894年 - 1895年)に敗れた清朝は、下関条約により台湾と澎湖諸島を大日本帝国に割譲した。日本割譲に反対する勢力は、1895年5月23日に台湾民主国を樹ち立て、唐景崧を総統に選出した。しかし間もなく唐景崧は清朝に逃亡、残存勢力は台南で劉永福を第2代総統に選出したが、日本軍により鎮圧され劉永福も清朝へ逃れた。
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台湾民主国
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詳細は「台湾民主国」を参照 同年4月17日に日本と清朝は下関条約を締結し、その際に台湾地域(台湾島と澎湖諸島)が清朝から日本に割譲された。 しかし台湾に住む清朝の役人と中国系移民の一部が清朝の判断に反発して同年5月25日「台湾民主国」を建国、丘逢甲を義勇軍の指揮官とし日本の接収に抵抗した。しかし日本軍が台北への進軍を開始すると、傭兵を主体として組織された台湾民主国軍は間もなく瓦解、台南では劉永福が軍民を指揮、また各地の民衆も義勇軍を組織して抵抗を継続したが、同年6月下旬、日本軍が南下、圧倒的な兵力・武器によって敗退、10月下旬に劉永福が大陸に逃亡し、日本軍が台南を占領したことで台湾民主国は崩壊した。日本側は死傷者5320名(戦死者164名、病死者4642名、負傷者514名)、抵抗した台湾軍民14,000人(『台湾史小事典』)の死者が出たとされる。このとき台湾の民衆は全島的な台湾人というアイデンティティとして戦っていたというよりも、共同の利害関係にあった各地の資産家と農民が郷土を守ろうとしていたのか、既に台湾人アイデンティティの萌芽が内発的に誕生していたのかについては議論が分かれている。台湾の一部の民衆が義勇兵となって抵抗したのは、抗日軍が「日本軍は婦女を暴行し、家屋の中を荒らし、田畑を奪う」と民衆に宣伝(プロパガンダ)してまわっていたため、台湾各地の老若男女が義勇兵となり抵抗したという史料も存在している。
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