南海1900号電車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 08:09 UTC 版)
南海1900号電車(なんかい1900ごうでんしゃ)は、現・南海電気鉄道の前身である南海鉄道が、1938年(昭和13年)に導入した電車(制御車)である。
注釈
- ^ 制御車であるのでAUR-11そのものは搭載されておらず、これを制御するための主幹制御器とその信号線引き通しのみが設置されていた。
- ^ 作家の阿川弘之は自著『山本五十六』にて、山本五十六が連合艦隊司令長官に任命され、当時和歌山市の和歌浦に停泊中であった連合艦隊旗艦「長門」へ乗船のため難波駅より南海本線を利用した際の情景を「(前略)南海の特急には、長官のための特別車が一輌連結されて、特別車には、山本と藤田副官と南海電鉄の秘書課長が一人乗っているだけであった。(中略)特別車の中の金襴のテーブル掛けでおおわれた机を眺めながら、山本は、『どうも、やんごとなき人のようだね』と照れていたそうである。(後略)」 と描写し、山本が南海線内にて「特別車」に乗車したとしている。
- ^ 戦中の1942年(昭和17年)に落成したモハ1201形1245 - 1249・クハ1901形1910 - 1914より、構体製造工程の簡略化や灯火管制対策、および多客時の車内通気性改善を目的として、側窓構造を従来の2段上昇式の大型窓から1段下降式の小型窓に改める設計変更が行われた[6]。この設計は特に立席客の居住性改善に効果を発揮したため、戦後に新製された各形式にも踏襲された[6]。
- ^ 1953年(昭和28年)当時の前述モハ1251形1251 - 1258のうち、モハ1253・モハ1255・モハ1258の3両は戦中の空襲により車体を焼失し、復旧に際して戦後製造グループと同一の車体を新製した戦災復旧車となっていた[4]。すなわち、同8両のうち戦災を免れた原形車5両の中から、若番順にモハ1251・モハ1252・モハ1254の3両が「こうや号」専用車両に選定されたものである[4]。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab 「私鉄車両めぐり(73) 南海電気鉄道 鉄道線電車 (3)」 (1967) pp.70 - 71
- ^ a b 「南海高野線における吊掛式回生ブレーキ電車の軌跡」 (1995) p.140
- ^ a b c 『私鉄の車両23 南海電気鉄道』 p.186
- ^ a b c d e f g h i 「私鉄車両めぐり(73) 南海電気鉄道 鉄道線電車 (4)」 (1967) pp.67 - 69
- ^ a b c d e f g h i 「南海個性派列車列伝」 (2008) pp.142 - 144
- ^ a b c 「私鉄車両めぐり(73) 南海電気鉄道 鉄道線電車 (3)」 (1967) pp.65 - 68
- ^ 「回想の南海電車 -昭和30年代を中心に-」 (2008) pp.136 - 137
- ^ a b 「南海高野線における吊掛式回生ブレーキ電車の軌跡」 (1995) p.143 - 144
- ^ a b 「南海電鉄の昇圧に伴う車両の改造と動き」 (1974) p.46
- 1 南海1900号電車とは
- 2 南海1900号電車の概要
- 3 運用
- 4 脚注
固有名詞の分類
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