十日間戦争
十日間戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 01:59 UTC 版)
詳細は「十日間戦争」を参照 6月26日、リュブリャナの議事堂前広場でユーゴスラビア国旗がスロベニア国旗に置き換えられたが、27日、前日に展開していた連邦軍はリュブリャナ空港を封鎖、爆撃を加える事により軍事作戦が開始された。連邦軍は最初にオーストリア国境、次にイタリア国境でそれぞれ配置されていたスロベニア人警察官やスロベニア人税関職員を攻撃、マリボル北方のシェンティリの町では激戦が交わされた。 これに対し欧州共同体は素早く反応したがフランス、イギリスがユーゴスラビアの維持を支持、イタリア、ドイツ、オーストリア、ハンガリーらはスロベニアの独立承認を行った上での即時停戦を支持するなど混乱を見せていた。6月28日、ルクセンブルク、イタリア、オランダの外相らは連邦軍がスロベニア内に存在する連邦軍基地へ撤収した後にスロベニアから撤退すること、スロベニアとクロアチアの独立を3ヶ月凍結した上で連邦政府と交渉を行う事、輪番制の国家元首に着任を拒否されていたクロアチアのスティエパン・メシッチを選出することの3つを軸に妥協案を提案した。これら妥協案を元に交渉が重ねられ、7月7日、ついに連邦軍はこの妥協案を受け入れ、スロベニアからの撤退を開始、スロベニアの独立は事実上のものとなった。 この戦いでスロベニアでは54名、連邦側はそれ以上の死者、物的損害を出す事となり、さらにはセルビア人以外の将兵らの脱走も発生していた。結局、スロベニアの独立についてはECの立会いの下、クロアチア沿岸のブリオニ島で継続することとなった。ユーゴスラビア連邦軍が撤退を完了した後、スロベニアは事実上、独立状態と化しており、独自通貨のトラルを発行、12月28日には新憲法が制定され複数政党制、大統領制が採択された。 この新憲法に沿った総選挙が1992年12月に実施され10以上の政党が議席を得る事となったが、第一党は自由民主党が獲得した上で連立与党を形成、首相には自由民主党党首ヤネス・ドルノウシェクが選出、大統領にはミラン・クーチャンが選ばれたが、スロベニアには大きな課題が存在していた。 この課題はスロベニア独立の承認を得る事であったが、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、チェコスロバキア(当時)、ポーランド、さらにローマ教皇ヨハネ・パウロ2世らは積極的であったが他のヨーロッパ諸国は消極的であり、特にイタリアは1945年から46年に手放していたイタリア系住民の財産補償問題を掲げ、さらにフランスは親セルビア的観念から連邦を支持、イギリスはこれに距離を置いていた。これらの状況の中、ドイツがECに圧力をかけたことにより1992年1月15日、スロベニア、クロアチアの独立を承認、これを契機に他の諸国も両国の承認を行うようになり、1992年5月22日、最終的に国連加盟国となった。
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