勝安芳 かつ やすよし
東京生まれ。幕臣、政治家。長崎海軍伝習所に学ぶ。蘭学、西洋兵学を修得し、万延元年(1860)咸臨丸艦長として渡米。文久2年(1862)軍艦奉行並となる。元治元年(1864)軍艦奉行に就任、神戸に海軍操練所を開き、幕臣のほか坂本竜馬ら諸藩の学生、志士を教育。戊辰戦争では西郷隆盛を説得し、江戸城の無血開城に成功。新政府で、海軍大輔、参議兼海軍卿、元老院議官等を歴任。のち枢密顧問官となる。
キーワード | 政治家 |
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号・別称等 | 義邦, 海舟 |
- 著作等(近代デジタルライブラリー収載)
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- 亡友帖 / 勝安芳編 瑞穂屋卯三郎, 明11.2 <YDM4987>
- 断腸之記 / 勝安芳著 石光与吉, 明21.10 <YDM1940>
- 亡友録 / 勝安芳著 博文館, 1889 <YDM4988>
- 海軍歴史. [1], [2], [3], [4], [5], [6], [7], [8], [9] / 勝安芳(海舟)著 海軍省, 明22.11 <YDM52669>
- 外交余勢・断腸記 杉原謙, 1890 <YDM1780>
- 流芳遺墨. [1], [2] / 勝安芳(海舟)編 福田敬業, 明23.8 <YDM70624>
- 桜園集 / 大久保一翁著 ; 勝安芳編 勝安芳, 明25.12 <YDM85686>
- 開国起原. [1], [2], [3] / 勝安芳著 吉川半七, 明26.1 <YDM1781>
- 幕府始末 / 勝安芳著 国光社, 明28.3 <YDM1990>
- 海舟先生氷川清話. [1], [2], [3] / 勝安芳述 ; 吉本襄編 鉄華書院, 明30-31 <YDM6627>
- 海舟遺稿 / 亀谷馨(天尊)編 ; 東久世竹亭閲 鴻盟社, 明32.10 <YDM205090>
- 海舟先生精神修養談 / 安部正人編 大学館, 明35.12 <YDM9237>
- 大日本創弁海軍史. [1], [2], [3] / 勝安芳著 ; 中島雄等訳 吉川弘文館, 明39.10 <YDM52727>
- 海舟日誌 / 勝安芳著 ; 梶梅太郎校 開国社, 明40.7 <YDM6620>
- 海舟先生氷川清話 / 勝安芳述 ; 吉本襄編 河野成光館, 明42.10 <YDM6629>
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勝海舟
(勝安芳 から転送)
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勝 海舟(かつ かいしゅう、文政6年1月30日〈1823年3月12日〉- 明治32年〈1899年〉1月19日)は、日本の武士(幕臣)、政治家[1]。位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵。初代海軍卿。江戸幕府幕府陸軍最後の陸軍総裁。
注釈
- ^ 現在の東京都墨田区両国の一部。当時の本所亀沢町と現在の墨田区亀沢とは町域が重なっていない。
- ^ 墨田区立両国公園(両国4-25)内に「勝海舟生誕之地」碑が建っている。また、墨田区役所敷地(吾妻橋1-23)内には勝海舟像が建つ。
- ^ 現在の新潟県柏崎市の一部。
- ^ 男谷家は平蔵が継ぎ旗本となり、次男で小吉の兄彦四郎思孝、その次は思孝の従甥で男谷忠之丞の子信友(下総守、剣聖・精一郎)が継いだ[6]。
- ^ 浅草新堀。現在の台東区元浅草、三筋付近。
- ^ 後に妹の順子は象山に嫁いでいる。
- ^ 富田鉄之助作成の年譜で開塾が海舟の父が死んだ同年9月と一緒に記録されているため、年は特定出来ても月日が分からない。また、杉と佐藤の入門時期は佐藤が安政元年10月28日と記録に書かれているが、杉は諸説ありはっきりしない[10]。
- ^ 第一期から三期まで在籍したことを「勝は成績が悪く、三度落第した」とする文献もある。航海術に必要な数学(算数)が苦手だったようである。ただし、これは反勝派の旧幕臣から出たものであり、事実とは言いがたいという反論もある。オランダ教官からは非常に評価されているとのことである。
- ^ 妻には「ちょっと品川へ船を見に行ってくる」とだけ言って出かけたらしい[17]。
- ^ この時の海舟の船酔いについては、実は海舟が何らかの伝染病に罹っており、自らを隔離するために船室に引き籠もっていたとする説もある。
- ^ 帰路もアメリカ人が乗船したとの説もある。
- ^ この会議での対応は木村の面目を潰す行為だったが、海舟はなんら気にせずに開陳、11月に再度開かれた会議では無言で通した。以後も木村の対応はぞんざいで、日記では同じ船に乗ったこと、木村と会ったことなどが書かれていない[20]。
- ^ 神戸は平安時代末の平清盛以来の国際貿易港であったが、それは朝鮮・中国を相手にしたものである。その神戸を西欧諸国との貿易のために活かそうとした点で海舟の提案は斬新だった。
- ^ この塾頭が坂本龍馬だった。また、塾生には後の外務大臣陸奥宗光や海軍元帥伊東祐亨、元老院議官湯地定基らがいた。
- ^ 海舟が主張する攘夷は、外国と戦えば負けることを前提に、戦争よりも寧ろ戦後処理を重視している。戦争に負けて天下に攘夷が不可能なことを知らしめ人心を一新、加えて外国と攘夷論者に怯えて消極的な対応しか出来ない幕臣も追放、武備を充実させて世論を統一させた上で改めて外国との条約締結を論じている。これは既に春嶽や小楠が公議政体論と重ねて言っていることで、彼らと同志である海舟もこの種の大開国論者になっていた[22]。
- ^ 逆にそうでない期間には本など読まなかったとも述べている。
- ^ 後に軍事総裁として全権を委任され、旧幕府方を代表する役割を担うという説明があるが、松浦はこの説を否定、若年寄に任命された旗本集団(浅野氏祐・川勝広運ら)が事実上幕府の全権を担い(後に一翁も若年寄に就任)、海舟は若年寄を辞退し彼らの下に置かれている事実を強調している。一方、不平分子を退散させるため、新選組の近藤勇・土方歳三らに甲陽鎮撫隊と改称させ甲府城へ向かわせ、古屋佐久左衛門率いる衝鋒隊を別方面に出発させている[28]。
- ^ 例えば高橋敏の『清水次郎長と幕末維新』(岩波書店、2003年)などで清水次郎長とその配下に護衛を依頼したとする説を一次資料を提示しない「通説」としてとりあげているが、高橋自身も賛同はしておらず『清水次郎長とその周辺』の増田知哉や藤田五郎、村本喜代作、長谷川昇、戸羽山翰も同様である旨を明記しておく。また海舟と次郎長について交際のあった一次資料はない。同じ3月に街道警護役を伏谷如水から押し付けられた件と混同している向きもある。
- ^ 海舟自身は日記・座談で明言していないが、津本陽・檜山良昭ら多くの作家が調査のうえ、海舟が知識としては持っており参考にした可能性が高いと論じている。
- ^ 海舟の政治構想はなるべく400万石を保った徳川の存続を図り、徳川を含めた諸侯から一律の割合で費用を徴収、政治体制は公議政体論の実現を目指した物だったが、上野戦争を経て新政府が旧幕府に妥協する必要がなくなると海舟の構想も頓挫してしまった。失敗の原因である彰義隊について海舟は暴発を防ごうと説得に当たったが失敗、彼らを扇動したとして寛永寺執当の覚王院義観を激しく非難している[36]。
- ^ 勝海舟は、慶応4年6月3日(1868年7月22日)の日記(『海舟日記』)に以下のように記し、人材不足と時勢への乗り遅れを指摘し、会津藩を非難した。 「榎本和泉白戸石介仙臺米澤の議論を助けて衆評せむと云 我見る所別にあり 此大意を挙て答ふ 當今大事を成すは國の大にあらす人の多きにあらす唯人才に在り 今哉東國人才あるを聞かす 唯大國と人衆を頼みて策略甚疎なり 且小是を守て別に大是あるを知らす 又彼を詳察せす己を斗らす如何そ全勝を算せん哉 誠に鎖国の陋習と泰平の名分を頼みて天下の形勢を洞察せす 會藩忠あるに似て其實は非なり 徳川氏今日の事、會の爲に誤らるる者十にして八九 是を知らすして慢に干戈を起さむとす 亦危からすや 我如何そ是を頼まむ云々」 国立国会図書館デジタルコレクション『海舟全集 第九巻 (海舟日記其他)』153頁 「海舟日記」 慶応4年6月3日 (著者:勝安芳 出版者:改造社 発行:昭和3年(1928年)11月5日) (2018年10月10日閲覧。)
- ^ 当時、明治天皇の侍従を務めていた山岡鉄舟を介して西郷の赦免、西郷の遺児を江戸に呼ぶことを明治天皇に提案している。その後、西郷の嫡男・寅太郎は明治政府に採用されてポツダム陸軍士官学校留学を命ぜられ、庶長子菊次郎は外務書記生としてアメリカ公使館勤務となった。また、西郷の甥で弟・吉二郎の長男の隆準も寅太郎と同行し留学を希望したので、海舟は徳川家から借金をして寅太郎と隆準の留学の際の餞別金350円を手渡している。
- ^ 作家の山田風太郎は、自身の著書『人間臨終図巻』の中で、海舟のこの言葉を「臨終の際の言葉としては最高傑作」と評している。
- ^ 当初は子爵の内示だったが、左記の感想を述べ辞退、のちに伯爵を授爵したという説と伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌という説がある。だが、宮島誠一郎が語った上記の逸話を踏まえれば「伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌」という説の方が自然とも言える。勝の身長は実際に五尺ちょっとで、当時の人の中にあっては実際人並みであるが、西郷など長身だった者も維新で活躍した中には多く、その自身の身長に掛けている。事実、勝は自分のことをよく「小男」などと表現している。
- ^ 新政府への遠慮、旧時代との決別などではなく、7月8日(8月15日)に新政府が「百官受領」を廃止すると布告したため、勝安房(守)が使用できなくなったからである。この布告により名を改めた同様の例として、大目付や箱館奉行などを歴任した織田泉之(旧名は信重。官途名は和泉守)がいる。
- ^ 数学が必須の海軍伝習で、幕臣関係同期生39人中留年者は勝ほか4人であった[67]。
- ^ この騒動の結末は書かれていないため不明だが、翌9月に海舟が順動丸に老中酒井忠績を乗せて江戸から大坂へ向かったため、ストライキはうやむやに終わったのではないかと推測されている[77]。
- ^ 海舟没後、勝家は男子の後継者を法的に定めておらず、女戸主となり一旦爵位を返上している。なお精の代に3回家宝の売立てを行っている[82]。
出典
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勝安芳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 02:49 UTC 版)
幕末から明治初期の幕臣。軍艦操練所の教授方頭取。べらんめい調で語るが学問に優れ、登場人物に助言を与える事もある。
※この「勝安芳」の解説は、「忍法帖シリーズ」の解説の一部です。
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勝安芳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 03:41 UTC 版)
参議・海軍卿。かつて戊辰戦争の折には西郷と談判して東京(江戸)を戦火から救い、西郷の最大の理解者の一人でもあるが、征韓論を戦乱の元と見なして沈黙を守った。旧幕臣という立場上政治の第一線に立つ事を遠慮していたが、海軍省に請われてその代表となり、陰ながら日本の海軍の充実と日本の近代化に努めた。太政官内では大久保と木戸に並ぶ影の影響力を持つ。開明的な思考の持ち主で、大久保については大政治家として大いに評価していたが、維新後の太政官における長州人の伊藤や山県たちに対する失望の方が強く、辞職して政府を去る。単刀直入に物事の本質を突き通しつつも、皮肉交じりに世間を批判する。
※この「勝安芳」の解説は、「翔ぶが如く」の解説の一部です。
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