誕生日
(出生日 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/18 03:24 UTC 版)
誕生日(たんじょうび)は、特定の人の生まれた日、あるいは、毎年迎える誕生の記念日のこと。派生的に、動物・物・サービスなどにも用いる場合がある。「○年○月○日」のような「年」の部分をつけてある特定の人などの誕生の日を示すこともあれば、単に「○月○日」のみで記念日を示すこともある。前者の「○年○月○日」の用法は、生年月日(せいねんがっぴ)と同義。
注釈
- ^ 日本国内においては、日本国籍者の場合はパスポートなどの例外を除き和暦で表記されるが、日本以外の国籍を持つ人は運転免許証などの例外を除き西暦が使われることが多い。たとえば個人番号カード(マイナンバーカード)の生年月日は日本国籍者については和暦で、日本以外の国籍を持つ人については西暦で表記されている[1]。
- ^ 学校教育法第十七条 保護者は、子の満六歳に達した日の翌日以後における最初の学年の初めから、満十二歳に達した日の属する学年の終わりまで、これを小学校に就学させる義務を負う
- ^ 間に閏日を挟む場合は366日目
- ^ 「2月28日」は誕生日より前であり、「3月1日」は誕生日より後であるため、2月28日を過ぎて3月1日になった瞬間(3月1日0時)を一般的には加齢のタイミングとみなされる。
- ^ 行政手続、誕生日会などのイベント、割引などの特典など
- ^ 正確には次の通りである。グレゴリオ暦1900年2月28日は、ユリウス暦では1900年2月16日である(12日のずれ)。グレゴリオ暦1900年3月1日〜3月13日は、ユリウス暦1900年2月17日〜2月29日に相当する。グレゴリオ暦1900年3月14日〜2100年2月28日は、ユリウス暦1900年3月1日〜2100年2月15日に相当する(13日のずれ)。グレゴリオ暦2100年3月1日〜3月14日は、ユリウス暦2100年2月16日〜2月29日に相当する。グレゴリオ暦2100年3月15日は、ユリウス暦では2100年3月1日である(14日のずれ)。
- ^ 実際のイエスの誕生日に関する議論はクリスマスを参照
- ^ 初代大統領ジョージ・ワシントンの誕生日(本来の誕生日は2月22日<ユリウス暦2月11日>)。その後、第16代大統領エイブラハム・リンカーンの誕生日2月12日と複合する形で現在の方式になった。
出典
- ^ 地方公共団体情報システム機構番号移行サポートセンター. “番号制度に関するQ&A” (pdf). 2019年1月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年7月19日閲覧。 “問3を参照。”
- ^ ニジェール人の誕生日は1月1日が多い 笹川陽平 日本財団、2008年8月
- ^ 宮崎市定『元日と誕生日』岩波現代文庫「東風西雅抄」P235 - 236。ただし北魏は漢民族の王朝ではない
- ^ 湯浅邦弘 『ビギナーズ・クラシック中国の古典 菜根譚』 角川ソフィア文庫 7版2015年(初版14年) p.217.
- ^ 鵜澤由美 2008, p. 226-227.
- ^ 鵜澤由美 2008, p. 227.
- ^ 鵜澤由美 2008, p. 227-228.
- ^ 鵜澤由美 2008, p. 228-232.
- ^ 鵜澤由美 2008, p. 235.
- ^ 鵜澤由美 2008, p. 240.
- ^ 鵜澤由美 2008, p. 244-248.
- ^ 鵜澤由美 2008, p. 249.
- ^ 鵜澤由美 2008, p. 252.
- ^ おたんじょうびせき【御誕生日席】の意味 - goo辞書(デジタル大辞泉)
- ^ アストリッド・リンドグレーン『やねの上のカールソン』岩波書店版 訳・大塚勇三 リンドグレーン作品集7 1965年:ISBN 4001150670
- ^ 年齢計算ニ関スル法律第2項
- ^ “概要|国連ウェーサクの日・日本委員会 公式 HP”. 2022年8月14日閲覧。
- ^ 誕生日に自殺や事故死が増える、大阪大学調べ (2016年6月6日)
- ^ 事故・自殺・病気 - 1年で最も死亡率の高い日が統計調査で明らかに
- ^ 創世記(口語訳)#40:20-22
- ^ マタイによる福音書(口語訳)#14:6-12
出生日
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 23:15 UTC 版)
1909年12月21日とされるが、2月12日ともされる。 実際の誕生日に関しては、松本清張記念館にも展示されている清張の幼児期の記念写真の台紙の裏に、「明治四十二年二月十二日生、同年四月十五日写」と墨書されており、残されている幼児期の他の肖像写真にも、「明治四十二年二月十二日 同年六月二十七日写 松本清治」と書かれている。これらの写真や台紙に記載のある写真館は、広島市内に当時実在したことが確認されている。両親が自分の子の誕生日を二度にわたり誤記する可能性は低いことから、1909年2月12日が清張の実際の誕生日であると推定される。 12月21日という日付は、出生届が受理された戸籍上の誕生日の可能性が高く、広島から小倉に移った両親が、まだ出生届を出していなかったことに気づき、あるいは他人から指摘されて提出した日か、その際、届け出の遅れを吏員に叱責されるのを恐れ、届け出日の数日前の日付を記入した、などの事情が考えられる。 清張は実際には1909年2月12日に広島市で生まれ、2枚目の写真が撮られた同年6月27日までは少なくとも広島に居住しており、出生届を出したとされる同年12月21日頃までの間に一家は広島を出て、小倉で同年12月21日頃に出生届を提出、その後に祖父母のいる下関市に移住した、と考えられる。清張は『半生の記』で「広島から峯太郎とタニとが九州小倉に移った事情はよく分からない。(中略)それで、炭鉱景気で繁昌している北九州の噂を聞いて、ふらふらと関門海峡を渡ったのではないかと想像する。明治四十二年十二月二十一日に私が生まれている」と書いている。
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