出世街道
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部屋を抜け出す騒動を度々起こしても持ち前の素質や出稽古などは欠かさなかった成果か、同期の保志には先を越されたものの、北尾は1984年1月場所で新十両、同年9月場所で新入幕を果たした。北尾の十両昇進によって1982年11月場所から続いていた立浪部屋の関取不在は解消された。前頭三枚目に昇進した翌11月場所には、初日に大関・北天佑を破る番狂わせを起こすと、3日目には憧れの横綱・北の湖と最初で最後の取組を演じ、これに勝利した。「対戦できたこと自体がもう嬉しくて…自分が目標としてきた力士と対戦できる喜び。とにかく負けてもいい」と後年に語っていた中での初金星であった。この場所はその取組が評価されて初の三賞となる殊勲賞を獲得、1985年1月場所は新小結に昇進し、2場所連続で10勝、同年5月場所は新関脇となったが、中日の保志戦で左足を怪我したため途中休場(その後13日目から再出場)で6勝(6敗3休)に終わり、平幕に陥落した。しかし、翌7月場所は東前頭筆頭の地位で、千代の富士と隆の里の両横綱を共に下して2個の金星を獲得した他、対戦した全横綱・大関を相次いで破る活躍で12勝を挙げ、優勝次点で殊勲・技能の三賞も獲得した。中でも、この場所5日目の千代の富士戦は、立ち合い諸手突きで千代の富士得意の左前ミツを許さず、そのまま一気に押し出した。同年9月場所関脇に復帰して11勝、次の11月場所も関脇で12勝の優勝次点と、幕内上位及び三役の地位で3場所連続二桁勝利を達成、この3場所合計でも35勝の好成績を挙げた事を高く評価され、1986年1月場所で新大関となった。関脇までは保志のほうが番付で先行したが、大関には北尾が先に昇進した。 大関時代の同年5月場所には、同場所で大関獲りだった小錦との取組で鯖折りによって小錦の右膝を負傷させた。この一番は、一度は小錦に軍配が上がったものの物言いが付き、取り直しの一番で小錦は膝を負傷させられた。小錦にとってはこの故障が引退まで祟り充分な力が出せなくなったうえ、双羽黒が後述のトラブルが原因で廃業したことで横綱昇進の基準が厳しくなったこともあり、双羽黒が「横綱・小錦」を阻んだと見られることがある。但し小錦自身は双羽黒を憎んではおらず「あのケガがあったから大関になれた」と語っており、また「自分は体重が重くて足が小さいから」と遅かれ早かれ怪我をすると割り切っていた。
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出世街道
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系統別から部屋別総当たり制となった1965年1月場所の初日には、初対戦となった同門の横綱で兄弟子だった大鵬幸喜と対戦して勝利した(この一番が部屋別総当たり制の定着を決定づけたとも言われる)。また、大関昇進までに栃ノ海晃嘉・佐田の山晋松から2個ずつ金星を獲得し、1966年9月場所に関脇で11勝4敗の成績を上げ、ライバルの大関北の冨士勝明(当時)より1場所遅れて大関へ昇進した。 しかし大関昇進後の1年間は1桁勝ち星が続き、1967年3月場所には7勝8敗と負け越しを喫した(当時は「3場所連続負け越しで大関陥落」の制度だったため、次の同年5月場所は大関角番とならず)。1967年11月場所に11勝4敗と大関初の二桁勝利を果たして以降、終盤まで優勝争いに加わる好成績を挙げるようになり、1968年1月場所では12勝。3月場所は右ひざの負傷で出場が危ぶまれたものの連続して12勝をあげた。続く5月場所では13勝2敗の成績で、自身念願の幕内初優勝を果たした。場所後に協会は玉乃島の横綱昇進を横綱審議委員会に諮問し、6人の委員のうち2人(上田英雄、御手洗辰雄)は横綱昇進に賛成したが、残る4人は「反対ではないが、今回は待つべき」として、否決された。事前の報道でも「微妙な13勝」「内容に乏しい」と評価されていて、横綱昇進は時期尚早との見方が強かった。 初顔合わせで勝利した大鵬にはその後も大鵬が「精神的に堅くなった」こともあり、一時は3勝1敗とリードしたが、対戦を重ねるにつれて逆に玉の海(玉乃島)が全く勝てなくなり、1965年9月場所から1969年7月場所までは1不戦勝を挟んで16連敗を喫した(最終対戦成績は玉の海の7勝21敗(うち不戦勝1)。他に優勝決定戦で1勝1敗)。大鵬は「玉の海君に上手さえ取らせなければ、左右どちらの四つでも相撲は取れるし、勝てる」と見ており、実際に玉の海が右四つに組んでも左上手が取れず、逆に大鵬が右の差し手からの寄りや掬い投げで玉の海を圧倒した。また、玉の海の大関時代までは大鵬が離れて相撲を取り、玉の海が懐に飛び込むこともできずに敗れる相撲も多く、地力の差を感じさせる内容となっていた。横綱昇進後も玉の海は大鵬に2度にわたり千秋楽に全勝を止められ、最後まで壁となった。 1969年9月場所に13勝2敗の成績で2度目の優勝を果たしたが、同年11月場所は10勝5敗に終わり、13勝2敗で優勝した北の富士と明暗を分ける格好となった。1970年1月場所は一人横綱の大鵬が休場で「(北の富士と玉乃島)二人にとっては優勝と横綱をかけて初場所だ」「四人の大関のなかでだれが優勝してもおかしくない」と予想され、横綱昇進を巡ってはライバルの北の富士は「12勝の準優勝で横綱になれる」と言われ、当の玉乃島に関しては「ともかく13勝をやることだ。過去2回も惜しいところで見送られた実績がある。審議会の中にもこの点で同情している人もいるじゃないか」と救いの手を差し伸べる意見が見られた。この場所は中日までに2敗したため、その時点では綱取りは駄目かと思われたが、残りをすべて勝って13勝2敗とし、北の富士との優勝決定戦には敗れたが、場所後に協会は北の富士・玉乃島2人をともに横審に諮問し、約1時間の審議の末、出席した7委員の満場一致で揃って横綱推薦を決めた。2場所連続優勝の北の富士は文句なしだったが、玉乃島は横審委員の野間省一から「先場所の10勝がきがかり」との懸念が出て、委員長の舟橋聖一も「わたし自身、三分の二ぐらいに議論が分れると思った」と審議を振り返ったが、大関時代の勝率は北の富士を上回ること、1月場所は北の富士を破って優勝同点に持ち込んだこと、過去二度横綱昇進を見送られているがその時よりも力を付けていること等の理由で高橋義孝、御手洗辰雄両委員が玉乃島の安定感を高く評価し、この意見が審議を圧倒した。 二人の横綱昇進によって「北玉時代」の到来といわれた。
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