冶金研究所とは? わかりやすく解説

冶金研究所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/28 05:40 UTC 版)

冶金研究所(やきんけんきゅうじょ、英語: Metallurgical Laboratory あるいは Met Lab)は、第二次世界大戦期のマンハッタン計画原子爆弾を開発するアメリカ合衆国の計画)の一部をなすコードネームである。ノーベル賞受賞者でシカゴ大学の物理学教授であったアーサー・コンプトンを代表としていた。元々は大学のフットボール球場スタッグフィールド英語版として建てられたシカゴ・パイル1号で最初の管理された核の連鎖反応を生み出した。




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冶金研究所

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アルビン・ワインバーグ」の記事における「冶金研究所」の解説

大学卒業後、ウィルバー・ライト大学英語版)で教鞭をとった。 彼は、コロンビア大学でケネス・スチュワート・コール(英語版)に師事するために全米研究評議会フェローシップ応募し選出されたが、コール放射線生物学者としてマンハッタン計画従事するためにシカゴに来たため、このフェローシップを受けることはなかった。ワインバーグ1941年9月中性子捕獲計算従事する人材を必要としていたためシカゴ大学冶金研究所に、エッカートとサミュエル・キング・アリソン(英語版)の推薦により採用された。 1942年初頭アーサー・コンプトンは、プルトニウム研究従事するマンハッタン計画チームシカゴ大学集中させた。これにより、コロンビア大学ハーバート・アンダーソン英語版)、バーナード・フェルド(英語版)、エンリコ・フェルミレオ・シラード、ウォルター・ジン(英語版)、プリンストン大学のエドワード・クロイツ(英語版)、ギルバート・プラス(英語版)、ユージン・ウィグナージョン・ホイーラーなど、当時一流科学者多くシカゴ大学集まったワインバーグウィグナー弟子となったウィグナーは冶金研究所の理論グループ率い、そこにはワインバーグ、キャサリン・ウェイ(英語版)、ゲイル・ヤング、エドワード・クロイツがいた。このグループ任務は、ウランプルトニウム変換する生産用原子炉設計だった。当時原子炉理論上でしか存在せず臨界状態達した原子炉はまだなかった。1942年7月ウィグナー保守的な100 MW設計選び黒鉛製の中性子減速材水冷式採用した中性子吸収して原子炉効率低下させることが知られていたが、ウィグナー自分グループ計算正しく水冷式うまくいく確信していた。一方ヘリウム液体金属冷却材として使用することに伴う技術的困難は、プロジェクト遅らせることになったマンハッタン計画引き継いだ陸軍工兵隊は、原子炉詳細設計建設デュポン社任せた。しかし、デュポン社ウィグナーたちの間には摩擦があった。ウィグナー設計した原子炉デュポン社設計した原子炉との大きな違いは、プロセスチューブを円形配列の1,500本から正方形配列の2,004本に増やしたことと、出力50kWから25kWにしたことである。結果的には、デュポン社決定した炉心管増設は、ハンフォード・サイトB原子炉中性子毒問題になったときに役に立った増設しチューブおかげで、より多く燃料投入して中性子障害克服することができた。これがなければ黒鉛中のホウ素不純物燃焼してフルパワーになるまで、原子炉を低出力運転しなければならず、フル稼働1年も遅れることになっていたと推測されるハンフォード原子炉稼働すると、冶金研究所は再び理論設計目を向けたウィグナーは、原子炉作られプルトニウムプルトニウム240汚染による自発的な核分裂があることを発見しトリウムからウラン233作る方法変更することを提案した。しかし、ロスアラモス国立研究所開発したインプロージョン型核兵器設計によって、この課題解決された。またウィグナーは、ウラン重水の中の溶液泥漿にすることで、原子炉複雑さ多く取り除くことができる可能性興味持っていた。冶金研究所ではこれを実現する方法模索していた。 競合する設計の中で、ワインバーグ加圧水型原子炉(PWR)を提案し、これが最終的に最も一般的な設計となった。これは、ワインバーグシカゴオークリッジ同僚議論した多く可能性一つに過ぎなかった。後に彼はこう書いている。 初期の頃は、様々な種類動力炉検討しそれぞれの長所と短所比較していた。というのも原子炉構成する各要素燃料冷却材減速材)には多く可能性があるからある。核分裂性物質は233U・235U・239Pu、冷却材重水気体液体金属減速材重水ベリリウム黒鉛、あるいは高速中性子炉では減速材なし、などである。私の計算によれば燃料冷却材減速材全ての組み合わせ数え上げれば、約千種類もの原子炉になる。このように原子力初期段階では、どの可能性追求し、どの可能性無視するかを選択しなければならなかった。 加圧水型原子炉最終的な成功は、水の優れた特性よるものではなくオークリッジにある材料試験炉加圧版を使ってマークI型潜水艦用熱中性子炉プロトタイプを動かすことにしたことによるものだと彼は書いている。加圧確立されると、他の可能性追求するにはコストがかかりすぎるようになったが、ワインバーグ他の可能性興味持ち続けたフリーマン・ダイソンによればワインバーグ原子炉設計の広い世界支持した唯一の原子力パイオニアだった。

※この「冶金研究所」の解説は、「アルビン・ワインバーグ」の解説の一部です。
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