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うちだ-いつみ 【内田五観】
地図測量人名事典 |
内田五観(うちだいつみ 1805-1882)
和算家、星学局督務、「日本高山直立一覧」著者。
はじめ内田恭、宇宙堂と号し、通称を弥太郎といった。
江戸に生まれ、関流の数学を学び、瑪得弟加塾(まてまてかじゅく)を開く。
天保5年(1834)アリダート(象限儀)とバロメータ(占気筒)で富士山の高さを測り3475.7mの値を得た。「日本高山直立一覧」を著した。
韮山代官江川英竜の江戸湾防備巡見の際に測量技師として随行した。その後この延長で、いわゆる蛮社の獄(1839)が起きたことは有名である。
明治に入り、福田理軒らとともに、新政府の天文学御用掛となり、太陽暦改暦作業の中心的存在であった。
明治政府は、当時既に国際統一制度として認められつつあったメートル法と尺の関係を作ろうとした。1875(明治8)年には、折衷尺を基準とした「度量衡条例」が公布された。1メートルを3.3尺と決めたこの時、長さの参考にされたのが、現在国立科学博物館が所蔵する享保尺、折衷尺、又四郎尺の3本の物差しで、これは内田五観が所蔵していたといわれている。
はじめ内田恭、宇宙堂と号し、通称を弥太郎といった。
江戸に生まれ、関流の数学を学び、瑪得弟加塾(まてまてかじゅく)を開く。
天保5年(1834)アリダート(象限儀)とバロメータ(占気筒)で富士山の高さを測り3475.7mの値を得た。「日本高山直立一覧」を著した。
韮山代官江川英竜の江戸湾防備巡見の際に測量技師として随行した。その後この延長で、いわゆる蛮社の獄(1839)が起きたことは有名である。
明治に入り、福田理軒らとともに、新政府の天文学御用掛となり、太陽暦改暦作業の中心的存在であった。
明治政府は、当時既に国際統一制度として認められつつあったメートル法と尺の関係を作ろうとした。1875(明治8)年には、折衷尺を基準とした「度量衡条例」が公布された。1メートルを3.3尺と決めたこの時、長さの参考にされたのが、現在国立科学博物館が所蔵する享保尺、折衷尺、又四郎尺の3本の物差しで、これは内田五観が所蔵していたといわれている。
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内田五観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/12 10:00 UTC 版)
内田 五観(うちだ いつみ、文化2年(1805年) - 明治15年(1882年)3月29日)は和算家である。
[続きの解説]
「内田五観」の続きの解説一覧
- 1 内田五観とは
- 2 内田五観の概要
固有名詞の分類
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