六郷政晴とは? わかりやすく解説

六郷政晴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/08 08:40 UTC 版)

 
六郷政晴
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 延宝3年(1675年
死没 寛保元年3月27日1741年5月12日
改名 庄之助(幼名)、政晴
戒名 善性院法誉祖蓮
墓所 東京都台東区西浅草の万隆寺
官位 従五位下伊賀守阿波守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣家継吉宗
出羽国本荘藩
氏族 六郷氏
父母 父:六郷政信、母:牧野康成の娘
兄弟 政晴、三枝守相正室、松平康郷正室
正室:牧野成貞の養女
側室:笹瀬氏
政英政長、政蔭、玉子、万里、生駒親賢婚約者、小堀政寧正室ら
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六郷 政晴(ろくごう まさはる)は、江戸時代前期から中期にかけての大名出羽国本荘藩の第4代藩主。官位従五位下伊賀守阿波守

生涯

延宝3年(1675年)、第3代藩主・六郷政信の長男として誕生した。

貞享2年(1685年)9月22日、政信の死去により家督を相続した。元禄3年12月26日(1691年)、従五位下・伊賀守に叙任された。元禄4年(1691年)5月28日、お国入りの許可を得た。元禄6年(1693年)1月28日、奥詰に就任した。元禄7年(1694年)11月11日、奥詰を退任した。

治世中に隣接する旗本仁賀保挙誠と、領民の紛争を契機に争いが起こっている。本荘藩の領民が仁賀保氏領の冬師山の木を伐採したことで領民同士が争い、藩と仁賀保氏との争いへと発展した。将軍直参の旗本である仁賀保氏は幕府に裁定を持ち込み、争いは足掛け7年に及んだが、最終裁定は本荘藩に有利なものとなった。

また、正徳2年(1712年)には同じく隣接する亀田藩との間で、真木山の権益を巡っての争いが始まるが、これが解決するのは百余年のちのこととなる。享保11年(1726年)、長男の政英を病弱を理由に廃嫡した。享保20年(1735年)閏3月2日、次男の政長に家督を譲って隠居した。

寛保元年(1741年)3月27日、死去。享年67。

系譜

父母

正室

側室

  • 笹瀬氏

子女

脚注

  1. ^ 三田村鳶魚「「朝妻船」に描ける五の丸殿」『三田村鳶魚全集 第一巻』中央公論社、1976年、p.97




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