八多村
八多村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 15:23 UTC 版)
江戸時代から1889年(明治22年)までは徳島藩領・勝浦郡八多村が存在した。寛保神社帳によれば、神社は八幡宮2と五王権現が見え、その別当に金竜寺・長楽寺が見える(『続徴古雑抄1』)。 農作物は米麦を中心にミカン・柿・梅・ビワなども栽培された。また地内の過半を山間部が占めることから、薪・炭も大量に生産された。副業に養蚕も行われていた。1873年(明治6年)の養蚕戸数は23戸で、生糸842匁を製造したという(平岡治之助伝)。万延年間(1860年から1861年)前後に友兼庄之助が、元治年間(1864年から1865年)から明治初年(1868年頃)にかけて長田喜三太が寺子屋を開いており、寺子100名内外を教えた(『勝浦郡志』)。 人形芝居を演じる農村舞台が五王神社(旧五王権現)境内にある。現在の建物に1873年(明治6年)の権礼が残ることから、江戸期に建てられたと考えられる。これが犬飼農村舞台で、現在も演じられている。また犬飼には藩主お狩場があり、その休息には大久保家を使用した。 1871年(明治4年)に徳島県、同年に名東県、1876年(明治9年)に高知県を経て、1880年(明治13年)に再び徳島県に所属。同年に金竜寺に八多小学校が創立。1886年(明治19年)に宮井小学校に合併された。1889年(明治22年)に多家良村の大字となる。
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