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ブラジル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/24 05:44 UTC 版)

(伯剌西爾 から転送)

ブラジル連邦共和国(ブラジルれんぽうきょうわこく、ポルトガル語: República Federativa do Brasil)、通称ブラジルは、南アメリカに位置する連邦共和制国家である。南米大陸で最大の面積を誇り、ウルグアイアルゼンチンパラグアイボリビアペルーコロンビアベネズエラガイアナスリナムフランス領ギアナ(つまりチリエクアドル以外の全ての南米諸国)と国境を接している。また、大西洋上のフェルナンド・デ・ノローニャ諸島、トリンダージ島・マルティン・ヴァス島、セントピーター・セントポール群島もブラジル領に属する。国土面積は日本の約22.5倍で、アメリカ合衆国よりは約110万km2コロンビア程度)小さいが、ロシアを除いたヨーロッパ全土より大きい。首都はブラジリア

南アメリカ大陸最大の面積を擁する国家であると同時にラテンアメリカ最大の領土、人口を擁する国家で、面積は世界第5位である。南北アメリカ大陸で唯一のポルトガル語圏の国であり、同時に世界最大のポルトガル語使用人口を擁する国でもある。ラテンアメリカ最大の経済規模であり、同時に世界で6番目の経済規模でもある。

目次

国名

正式名称は、ポルトガル語で República Federativa do Brasil (ヘプブリカ・フェデラチヴァ・ドゥ・ブラズィウ)。IPAでは、[xeˈpublika fedeɾaˈtʃiva du bɾaˈziw]。通称 Brasil (ブラズィウ)。

公式の英語表記は Federative Republic of Brazil。通称 Brazil。ポルトガル語では “Brasil” と綴られるが、英語では “Brazil” と綴られる。ただし、首都のブラジリアについては英語でも Brasília と表記される。

日本語の表記はブラジル連邦共和国。通称ブラジル。漢字表記では伯剌西爾となり、と略される。1822年ブラジル帝国として独立し、1889年の共和革命以降はブラジル合衆共和国を国名としていたが、、1967年に現在のブラジル連邦共和国に改称した。

国号のブラジルは、樹木のパウ・ブラジルに由来する。元々この土地は1500年にポルトガル人ペードロ・アルヴァレス・カブラルが来航した当初は、南米大陸の一部ではなく島だと思われたために「ヴェラ・クルス(真の十字架)島」と名づけられたが、すぐにマヌエル1世の時代に「サンタ・クルス(聖十字架)の地」と改名された。

その後あまりにもキリスト教的すぎる名前への反発や、ポルトガル人がこの地方でヨーロッパで染料に用いられていたブラジルスオウに似た木を発見すると、それもまた同様に染料に使われていたことから、木をポルトガル語で「赤い木」を意味する「ブラジル」と呼ぶようになり、ブラジルの木のポルトガルへの輸出が盛んになったこともあり、16世紀中にこの地はブラジルと呼ばれるようになった。

「ブラジル」という読みはポルトガル本国などで使われるイベリアポルトガル語での発音であり、ブラジル・ポルトガル語での発音に最も近いカタカナ表記は「ブラズィウ」である。

歴史

先コロンブス期

ブラジルのインディオ

ブラジルの最初の住民は、紀元前11,000年[1]ベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々(狩人)だった。彼らは紀元前8000年頃、現在のブラジルの領域に到達した[2]。現在のブラジルとなっている地に遠く離れたタワンティンスーユ(インカ帝国)の権威は及ばず、この地には原始的な農耕を営む、トゥピー・グアラニー系の、後にヨーロッパ人によって「インディオ」(インディアン)と名づけられる人々が暮らしていた。16世紀前半の時点でこうした先住民の人口は、沿岸部だけで100万人から200万人と推定されている。しかし、ヨーロッパ人が渡来してくるまでは、ブラジルに住んでいた人々の生活については何も知られていない。ブラジルの先住民には、トゥピー語系のほか、ジェー語系やヌ=アルアーク語系、カリブ語系の集団があった。ポルトガル人が最初に接触したのは、トゥピー語系先住民であった。そこでポルトガル人は、トゥピー語先住民の言葉がブラジル人の言葉であると誤解し、先住民はそれぞれ部族の言葉をもっているにもかかわらず、ポルトガル宣教師達は先住民にその言葉を教えた。それは信仰も同様として仕向けられた。[3]

ポルトガル植民地時代

ブラジルの「発見者」 ペドロ・アルヴァレス・カブラル
植民地時代初期の地図。

1492年クリストーバル・コロンヨーロッパ人として初めてアメリカ大陸に到達した後、「発見」されたアメリカ大陸の他の部分と同様にブラジルも植民地化の脅威に晒されることになった。1500年ポルトガル人ペードロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」すると、以降ブラジルはポルトガルの植民地として他の南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになった。1502年にはイタリア人のアメリコ・ヴェスプッチリオデジャネイロ(1月の川)を命名。

初期のブラジルにおいては新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)によってパウ・ブラジルの輸出が主な産業となり、このために当初ヴェラ・クルス島と名づけられていたこの土地は、16世紀中にブラジルと呼ばれるようになった。1549年にはフランスの侵攻に対処するために、初代ブラジル総督としてトメー・デ・ソウザがサルヴァドール・ダ・バイーアに着任した。

1580年にポルトガルがスペイン・ハプスブルク朝と合同すると、ブラジルはオランダ西インド会社軍の攻撃を受け、北東部の一部がネーデルラント連邦共和国オランダ)に占領された。オランダが撤退したのは1661年のことだった。

一方、パウ・ブラジルの枯渇後、新たな産業として北東部にマデイラ諸島からサトウキビが導入され、エンジェニョ(砂糖プランテーション)で働く労働力としてまずインディオが奴隷化された後、インディオの数が足りなくなると西アフリカアンゴラモザンビークから黒人奴隷が大量に連行され、ポルトガル人農場主のファゼンダで酷使された。

「全人種の黒き指導者」パルマーレスのズンビの胸像。

ブラジル内陸部の探検は、サンパウロのバンデイランテ(奴隷狩りの探検隊)により、17世紀に始まった。バンデイランテは各地に遠征して現在の都市の基となる村落を多数築いた一方、南部やパラグアイまで遠征してイエズス会によって保護されていたグアラニー人を奴隷として狩った。こうした中で、激しい奴隷労働に耐えかねた黒人奴隷の中には逃亡して奥地にキロンボと呼ばれる独立国家を築くものもあり、その中でも最大となったキロンボ・ドス・パルマーレスはパルマーレスのズンビーによって指導され、バンデイランテスによって1696年に征服されるまで独立国家として存続した。

一方、1680年にポルトガル植民地政府は、トルデジーリャス条約を無視してラ・プラタ川の河口左岸のブエノスアイレスの対岸にコロニア・ド・サクラメントを建設したため、以降バンダ・オリエンタルの地は独立後まで続くブラジルの権力とブエノスアイレスの権力との衝突の場となった。また、南部ではラ・プラタ地方のスペイン人の影響を受けてガウーショスペイン語ではガウチョ)と呼ばれる牧童の集団が生まれた。

その後、18世紀にはミナス・ジェライスで金鉱山が発見されたためにゴールドラッシュが起こり、ブラジルの中心が北東部から南西部に移動し、1763年にはリオデジャネイロが植民地の首都となった。ゴールドラッシュにより、18世紀の間に実に30万人のポルトガル人がブラジルに移住し、金採掘のためにさらに多くの黒人奴隷が導入された。一方でミナスの中心地となったオウロ・プレットでは独自のバロック文化が栄えた。

ミナスの陰謀。このブラジル初の独立運動では、首謀者の内最も身分の低かったチラデンチスのみが処刑された。

バンダ・オリエンタルを巡るスペインとの衝突の後、18世紀末には啓蒙思想がヨーロッパから伝わり、フランス革命アメリカ合衆国の独立の影響もあり、1789年にはポルトガルからの独立を画策した「ミナスの陰謀」が発覚し、首謀者のチラデンテスが処刑された。

その後、ハイチ革命の影響もあってクレオール白人やムラート、クレオール黒人(クリオーロ)による独立運動が進むが、植民地時代にブラジルに大学が設立されなかったなど知的環境の不備により、ブラジルの独立運動は一部の知識人の「陰謀」に留まり、大衆的な基盤を持つ「革命」にはならなかった。このことは、ブラジルとイスパノアメリカ諸国の独立のあり方の差異に大きな影響を与えた。

ブラジルの独立

ジョゼー・ボニファシオ・デ・アンドラーダ・エ・シルヴァ。独立派のブラジル人ブルジョワジーを代表してペドロを擁立した。

ナポレオン戦争により、1807年にジュノー元帥に率いられたフランス軍がポルトガルに侵攻した。このためポルトガル宮廷はリスボンからリオデジャネイロに遷都し、以降リオの開発が進んだ。1815年にリオデジャネイロはポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の首都に定められた。

ポルトガル政府はバンダ・オリエンタルのホセ・ヘルバシオ・アルティーガス率いる連邦同盟との戦いを進めてバンダ・オリエンタルを支配下に置き、征服した地域にシスプラチナ州を設立した。

1820年ポルトガルを自由主義的な立憲君主制国家に変革しようとする革命が起こり、リオデジャネイロのジョアン6世に帰国を要請した。 1821年にポルトガル宮廷はリスボンに帰還したが、摂政として残留したブラガンサ家の王太子ペードロをジョゼー・ボニファシオを代表とするブラジル人勢力が支持したこともあり、1822年9月7日に「イピランガの叫び」をあげて、ペードロが皇帝のペードロ1世(在位1823-1831)に即位する形でブラジル帝国がポルトガルから独立を宣言した。[4]

帝政時代

ドン・ペドロ2世。

ブラジルの独立はブラガンサ家の皇帝という求心力があったために、解放者シモン・ボリーバルホセ・デ・サン=マルティンミゲル・イダルゴらの掲げた共和制や立憲君主制の思想が求心力とならなかった。イスパノアメリカ諸国が分裂したのとは異なり、広大なブラジル植民地は単一のまとまりとして新たな主権国家を形成した。しかし、このことは植民地時代からのエリート層が独立後もそのまま権力を握り続けることをも意味していた。

このため、帝政時代は当初から各地方の中央政府に対する反乱や、共和制を求める自由主義者の反乱が勃発し、1820年代には北東部のペルナンブッコ州では赤道連盟の反乱が、最南部のシスプラチナ州では東方州リオ・デ・ラ・プラタ連合州復帰を求めた33人の東方人の潜入により、シスプラチナ州を巡ってシスプラチナ戦争が勃発した。シスプラチナ州はイギリスの仲介によって1828年にウルグアイ東方共和国として独立した。

ファロウピーリャの反乱。

1831年にペードロ1世が退位するとさらに地方の混乱は増し、最南部のリオ・グランデ・ド・スール州では牧場主とガウーショが反乱を起こし、ファラーポス戦争が勃発した。

『我が子の遺体を看取るパラグアイ兵』ホセ・イグナシオ・グアルメンディア画。

1840年にペードロ2世が即位すると事態は落ち着きを見せ、1848年のプライエイラの反乱を鎮圧した後に、ブラジル史上初の安定期が訪れた。ペードロ2世は領土的野心を持っていたウルグアイ、パラグアイへの介入を進め、その結果として1864年にパラグアイのフランシスコ・ソラーノ・ロペス大統領はブラジルに宣戦布告し、パラグアイ戦争が勃発したが、カシアス公率いるブラジル帝国が主体となった三国同盟軍はパラグアイを破壊した。

一方、独立後も大農園主の意向によって奴隷制は維持され続けたが、アメリカ合衆国南北戦争後は西半球で奴隷制を採用する独立国はブラジル帝国のみとなったため、三国同盟戦争後からオーギュスト・コント実証主義の影響を受けた知識人によって奴隷制批判がなされた。三国同盟戦争後に制度的に確立した軍の青年将校(テネンテ)達は実証主義思想に影響を受け、次第に奴隷制の廃止と帝政の廃止をも含めた国民運動が生まれた。この運動により1888年に黄金法が公布され、西半球で最後まで維持されていた奴隷制が廃止されたが、ペードロ2世は奴隷制廃止によって大農園主からの支持をも失い、翌1889年のデオドロ・ダ・フォンセッカ元帥のクーデターによって帝政は崩壊した。

旧共和国時代

共和制革命後4日間だけ用いられたブラジル合衆国の国旗。

1889年共和制革命により、ブラジルは帝政から共和制に移行した。この時期には カフェ・コン・レイテと呼ばれるサン・パウロ州ミナス・ジェライス州で相互に大統領を選出する慣行が生まれた。また、帝政時代からコーヒー・プランテーションでの労働力確保のためにヨーロッパよりイタリア人ポルトガル人スペイン人ドイツ人をはじめとする移民を受け入れていたが、奴隷制廃止後はさらに移民の流入速度が速まり、1908年にはヨーロッパのみならずアジアからも笠戸丸日本人移民が導入された。1919年にはパリ講和会議で日本が提出した人種差別撤廃案に賛成するなど人種差別撤廃に前向きであった。

第一次世界大戦協商国側で参戦した後、1920年代にはカフェ・コン・レイテ体制への批判が高まり、ルイス・カルロス・プレステスをはじめとするテネンテ(青年将校)達が各地で反乱を起こした。このテネンチズモは直接は国政に大きな影響を与えなかったが、間接的に1930年代の政治状況を用意することになった。

ヴァルガス時代

ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス。15年に渡るヴァルガス時代の間に現在のブラジルが形作られた。

1930年にカフェ・コン・レイテ体制に対する反乱が各地で勃発し、リオ・グランデ・ド・スール州ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが1930年革命を起こし、独裁政治を確立しようとした。1932年にはサン・パウロ州の反ヴァルガス勢力によって護憲革命が勃発したが、この反乱を鎮圧するとヴァルガスはブラジル全土に対する支配権を確立した。1937年にはヴァルガスはクーデターによってイタリアファシズムに影響を受けたエスタード・ノーヴォ体制を確立し、ヴァルガス時代には大学の整備、国家主導の工業化、ナショナリズムの称揚と移民の同化政策、中央集権体制の確立が進んだ。

1942年にヴァルガスは第二次世界大戦連合国の一員としてイタリア戦線に参戦したが、独裁体制に対する不満が国民と軍内部で強まり、第二次世界大戦終結後の1945年10月13日に軍事クーデターによって失脚した。

ポプリズモ時代

ブラジリア大聖堂。

1946年に新憲法が制定された後、1950年にブラジル史上初の民主的選挙によってジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが大統領に就任した。二度目のヴァルガスはファシズム色よりも左派ポプリズモ色を打ち出し、ブラジル経済の国民化が進められたが、軍の抵抗に遭ってヴァルガスは1954年に自殺した。

1956年に就任したジュセリーノ・クビシェッキ大統領は「50年の進歩を5年で」を掲げて開発政策を進め、内陸部のゴイアス州に新首都ブラジリアを建設し、1960年にリオデジャネイロから遷都した。しかし、この開発政策によって生まれた債務が財政を圧迫し、インフレが加速した。

1961年に就任したジョン・ベウキオール・マルケス・ゴラール(通称・ジャンゴ)大統領はこのような困難な状況を乗り切ることが出来ず、1964年にアメリカ合衆国の支援するカステロ・ブランコ将軍のクーデターによって失脚した。

軍事独裁政権時代

1964年にクーデターを起こしたカステロ・ブランコ将軍は軍事独裁体制を確立し、親米反共政策と、外国資本の導入を柱にした工業化政策が推進された。この軍政の時代に「ブラジルの奇跡」と呼ばれたほどの高度経済成長が実現したが、1973年のオイルショック後に経済成長は失速し、さらに所得格差の増大により犯罪発生率が飛躍的に上昇した。また、軍事政権による人権侵害も大きな問題となった。この間、各地でカルロス・マリゲーラの民族解放行動(ALN)や10月8日革命運動など都市ゲリラが武装闘争を展開し、外国大使の誘拐やハイジャックが複数にわたって発生した。

1974年に大統領に就任したエルネスト・ガイゼル(ガイゼウと発音)将軍は国民的な不満を受けて軍政の路線転換を行い、1979年に大統領に就任したジョン・バチスタ・フィゲイレードは民政移管を公約した。1985年に行われた大統領選挙ではタンクレード・ネーヴェスが勝利した。

民政移管以降

労働者党ルーラ元大統領と夫人。

1985年に民政移管が実現し、文民政権が復活したが、ネーヴェスが急死したために副大統領だったジョゼー・サルネイが大統領に昇格した。サルネイ政権下ではインフレの拡大によりブラジル経済は悪化し、内政では大きな成果を残せなかったが、外交ではアルゼンチンのラウル・アルフォンシン政権との関係がこの時期に大きく改善し、長らく続いた両国の敵対関係に終止符が打たれた。

1990年には国家再建党からフェルナンド・コーロルが大統領に就任したが、経済問題に対処できず、数々の汚職や様々な奇行のために1992年に罷免された。コーロルの失脚後、副大統領のイタマール・フランコが大統領に昇格した。

1995年にブラジル社会民主党から就任したフェルナンド・エンリッケ・カルドーゾ政権下でアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイにより、同年一月にメルコスール(メルコスウと発音、南米南部共同市場)が発足した。

2003年には労働者党からルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァが大統領に就任し、その後世界経済の好調を受けて経済が回復を見せた。

2010年10月、大統領選挙が行われ、与党労働者党ジルマ・ルセフ官房長官が当選した。ルセフは2011年1月、大統領に就任した。




ブラジル連邦共和国
República Federativa do Brasil
ブラジルの国旗 ブラジルの国章
国旗 国章
国の標語: Ordem e Progresso
ポルトガル語: 秩序と進歩)
国歌: ブラジルの国歌
ブラジルの位置
公用語 ポルトガル語[1]
首都 ブラジリア
最大の都市 サンパウロ
政府
大統領 ジルマ・ルセフ (ジウマ・ルセフィと発音)
首相 なし
面積
総計 8,511,965km25位
水面積率 0.7%
人口
総計(2010年 193,734,000人(5位
人口密度 22人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2008年 2兆8,897億[2]レアル
GDPMER
合計(2008年 1兆5,728億[2]ドル(12位
GDPPPP
合計(2008年 1兆9,812億[2]ドル(9位
1人あたり 10,325[2]ドル
独立
 - 宣言
 - 承認
ポルトガルから
1822年9月7日
1825年8月29日
通貨 レアルBRL
時間帯 UTC (-2 ~ -5)(DST: 脚注を参照[3]
ISO 3166-1 BR / BRA
ccTLD .br
国際電話番号 55
  1. ^ 実際に用いられているのは方言のブラジルポルトガル語である。
  2. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  3. ^ なお、一部の州で夏時間を導入している。

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  1. ^ 4万年以上も前という説もある。
  2. ^ ミナスジェライス洲ラゴーアサンタ地方で発見された、石斧、石槌、水晶の破片、貝殻の装飾品がその証拠
  3. ^ シッコ・アレンカール他著、明石書店 2007年 22ページ
  4. ^ 増田義郎・今井圭子「南アメリカ諸国の独立」181-183ページ(増田義郎編『新版世界各国史26 ラテン・アメリカ史Ⅱ 南アメリカ』山川出版社 2000年)
  5. ^ エドゥアルド・ガレアーノ/大久保光夫:訳『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』新評論、1986年 pp.327-329
  6. ^ http://www.jiji.com/jc/zc?k=201012/2010120700525
  7. ^ 在日ブラジル大使館報道資料
  8. ^ IMF: World Economic Outlook Database
  9. ^ “白人人口、半数割る=ブラジル”. (2011年11月17日). http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2011111700086 2011年11月17日閲覧。 
  10. ^ [2]
  11. ^ https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/br.html 2009年10月30日閲覧







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