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伊達公子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2009/12/26 11:11 UTC 版)

 伊達公子
Date Kimiko2008.jpg
伊達公子
基本情報
ラテン文字名 Kimiko Date
フルネーム Kimiko Date Krumm
国籍 Flag of Japan.svg 日本
出身地 同・京都府京都市
生年月日 1970年9月28日(39歳)
身長 163cm
体重 53kg
利き手 右(本来は左)
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1989年
引退年 1996年(2008年復帰)
ツアー通算 9勝
シングルス 8勝
ダブルス 1勝
4大大会最高成績・シングルス
全豪 ベスト4(1994)
全仏 ベスト4(1995)
全英 ベスト4(1996)
全米 ベスト8(1993・94)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト8(1992)
全仏 2回戦(1993)
全英 2回戦(1991)
全米 2回戦(1993)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 4位
ダブルス 33位
  
パン・パシフィック・テニス2008

伊達 公子(だて きみこ、本名:クルム 伊達 公子(クルム・だて・きみこ)、1970年9月28日 - )は、日本の女子プロテニス選手。京都府京都市上京区出身。日本人の女子テニス選手として、史上初の世界ランキングトップ10入りを果たした選手である。自己最高ランキングはシングルス4位、ダブルス33位。これまでにWTAツアーでシングルス8勝、ダブルス1勝を挙げる。2001年にドイツ人レーシングドライバーのミハエル・クルムと結婚して「クルム伊達公子」の名前になった。略称は「クルム伊達」。

目次

人物

伊達は4大大会で女子シングルス準決勝に3度進出し、これを含めて4大大会でのシングルスベスト8入りは6回にのぼり、準決勝進出・ベスト8入りとも日本女子選手歴代最多記録である。彼女はすべての4大大会でベスト8入りした最初の日本人女性でもある。本来は左利きであるが、子供の頃に日本の習慣に従って右利きに直された。そのため、テニスの試合でも相手選手がバックサイド(左側)に打ってきたボールを左打ちする場面がしばしば見られた。日常生活でも、サインの時などに左手を用いることがある。

伊達は「ライジング・ショット」の名手として、世界的にも有名な選手であった。これは、相手の打ったボールが自分のコートでバウンドした直後の上がり端を打ち返す、非常に高度な技術である。世界トップ選手へと躍進し始めた頃の伊達は、“ライジング・サン”(日の出)と呼ばれた。

戦歴

アマチュア選手としての活動

6歳の時から、京都市北区にあるテニスクラブ「セブンスリー」でテニスを始め、滋賀県大津市に転居後、京都市山科区にてデ杯監督竹内映二の父親である竹内穣治がオーナーを務める「四ノ宮テニスクラブ」でレッスンを積む。中学校時代には「滋賀県テニス選手権」で優勝した。

高校時代には、兵庫県尼崎市にあるテニスの名門校・園田学園高等学校にて光国彰監督の指導を受けた。1988年インターハイでシングルス、ダブルス、団体優勝の3冠獲得を達成する。

プロ選手としての活動

高校卒業後の1989年にプロ転向。同年、「サントリー・ジャパン・オープン」でWTAツアーにデビューし、岡本久美子との準々決勝まで進出。全仏オープン4大大会にデビュー。予選3試合を勝ち上がり、本戦2回戦に進出。ウィンブルドン全米オープンにも本戦出場。女子テニス国別対抗戦・フェデレーションカップ(現フェドカップ)の日本代表選手に初選出され、西ドイツ・チームとの2回戦でダブルス戦に起用された。

1990年全豪オープンで初の4回戦進出を果たす。3回戦で第11シードのパム・シュライバーを破って注目を集めたが、前年度準優勝者のヘレナ・スコバに 4-6, 3-6 で敗退した。

1991年、8月中旬の「バージニア・スリムズ・オブ・ロサンゼルス」大会で準優勝。準決勝で当時世界ランキング3位のガブリエラ・サバティーニを破る大金星を挙げ、決勝では当時の女王モニカ・セレシュに挑戦した。全日本テニス選手権の女子シングルスで初優勝を果たす。

1992年、2月に東京の「東レ・パン・パシフィック・テニス」で、当時世界ランキング5位のアランチャ・サンチェスを破る。3月末の「リプトン国際選手権」4回戦でシュテフィ・グラフと初対戦。全仏オープンで初めて4大大会のシード選手になり、4回戦に進出。全日本テニス選手権で2連覇。この年の活躍により、WTAアワードの「最も上達した選手賞」(Most Improved Player of the Year)に選出された。

1993年、全米オープンで初の4大大会ベスト8進出。この4回戦で、当年度のウィンブルドン準優勝者ヤナ・ノボトナを破る。

1994年、1月にオーストラリアの「ニュー・サウスウェールズ・オープン」で海外初優勝。日本人の女子テニス選手として、史上初の世界トップ10に躍進する。直後の全豪オープンで初の4大大会ベスト4進出を果たしたが、準決勝でグラフに 3-6, 3-6 で完敗。全米オープンで2年連続ベスト8入り。日本人選手として初めて女子テニスツアー年間最終戦の「バージニア・スリムズ選手権」の出場権を獲得し、準決勝まで進出した。(当時のバージニア・スリムズ選手権は、世界ランキング16位以内の選手のみに出場資格が与えられた。)

1995年、2月の東レ・パン・パシフィック・テニスで初優勝。その決勝戦では親友のリンゼイ・ダベンポートを圧倒した。リプトン国際選手権で準優勝。この大会では決勝でグラフに完敗したが、準決勝でガブリエラ・サバティーニを 1-6, 1-5 の土壇場から逆転し、1-6, 7-6, 7-6 で逆転勝利を収めた。この年は全仏オープンで日本人初のベスト4進出を達成するが、準決勝でアランチャ・サンチェスに 5-7, 3-6 で敗れた。敗れたものの、この準決勝はテレビ東京系の地上波でゴールデンタイムの午後9時から放映された。11月に自己最高の世界ランキング4位を記録する。

1996年4月27日 - 28日、東京・有明コロシアムで開かれた女子国別対抗戦・フェドカップの「ワールドグループ」1回戦でドイツと対戦し、28日の試合で女王シュテフィ・グラフを 7-6, 3-6, 12-10 で破る大金星を挙げた。1996年7月4日 - 5日の2日間にわたり、ウィンブルドン準決勝でグラフと最後の対戦をする。第1セットはグラフが 6-3 で先取したが、第2セットを伊達が 6-2 で取り返したときに試合が日没順延となり、翌日に持ち越された第3セットはグラフが 6-3 で取ったため、日本人選手初の4大大会決勝進出はならなかった。アトランタ五輪でも女子シングルスのベスト8に進出し、アランチャ・サンチェスに惜敗する。しかし8月25日、アメリカサンディエゴで開かれた「トーシバ・クラシック」決勝戦でサンチェスを 3-6, 6-3, 6-0 で破り、WTAツアー7勝目を挙げた。

同年9月24日に現役引退を宣言。WTAツアー年間最終戦の「チェイス選手権」2回戦で、当時16歳のマルチナ・ヒンギスに 1-6, 2-6 で敗れたのが現役最後の試合となる。世界ランキング8位での引退だった。

グラフとの通算対戦成績は1勝7敗であり、スペインコンチタ・マルチネスには「6勝2敗」と大きく勝ち越した。またアメリカリンゼイ・ダベンポートの若き日の好敵手でもあった。

伊達の世界的な活躍は、日本の女子テニス界にも計り知れない刺激を与えた。1995年の全米オープンでは実に8人の日本人選手が本戦に直接出場するなど、伊達が活躍した時代は日本勢全体の活躍が目立った時期であった。しかし伊達の引退後、日本の他のトップ選手たちの相次ぐ引退もあり、杉山愛が日本女子テニス界をリードしてきた。

その後

2000年2月6日 - 8日にかけて、シュテフィ・グラフの「引退世界ツアー」で日本の対戦相手に指名され、東京体育館名古屋レインボーホール大阪城ホールの3会場でエキシビション・マッチを行った。2001年12月1日、ドイツ人レーシングドライバーのミハエル・クルムと結婚し、本名が「クルム伊達公子」となった。

2008年3月15日、東京・有明コロシアムにてシュテフィ・グラフ、マルチナ・ナブラチロワとともにエキシビション・マッチを行い、ここでは伊達が2試合とも勝利を収めた(当初はサバティーニが参戦予定だったが欠場。代わりにナブラチロワが参戦し、伊達と初めての対戦となった[1])。

現役復帰

2008年4月6日、現役復帰を決意したことが報じられる。4月7日に復帰記者会見を行い、12年ぶりにツアープレーヤーとして再びコートに立つことを表明する。37歳にしてプロ復帰した理由を「世界と戦うためではなく、若い選手へ刺激を与えるため」と語り、現本名の「クルム伊達公子」でプロ登録した。

同年4月27日、岐阜市岐阜メモリアルセンターにある「長良川テニスプラザ」で開催された「カンガルーカップ国際女子オープン」のシングルス予選で現役復帰する。3戦全勝で予選を突破し、本戦1回戦では藤原里華、準々決勝では中村藍子を破り、決勝まで勝ち進んだが、タマリネ・タナスガーンタイ)に敗れて準優勝に終わった。15歳のジュニア選手・奈良くるみと組んだダブルス決勝では、ニコル・タイセン(オランダ) & メラニー・サウス(イギリス)組を破って優勝した。

同年6月15日、東京有明国際女子オープンシングルス決勝で、主催者推薦で出場の18歳秋田史帆を 6-3, 6-2 で破り、シングルスでのプロ復帰後初優勝を果たした。同年7月12日、日本サッカー協会理事に就任する。これは同協会犬飼基昭会長の推薦によるもので、平尾誠二神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャー)とともにサッカー界以外からの就任をした。11月には全日本テニス選手権に出場、女子シングルス決勝で瀬間友里加ピーチ・ジョン)を破って16年ぶり3度目の優勝を飾る。38歳での優勝は、宮城黎子1963年に41歳で優勝し、大会8連覇を達成した時に次ぐ年長記録である。また藤原里華と臨んだダブルスでも決勝で米村明子&米村知子組を破って17年ぶり2回目(藤原は6年ぶり3度目)の優勝を飾り、吉田友佳以来5年ぶりの単複2冠の達成者となった。

2009年、クルム伊達はグランドスラム大会にも13年ぶりの再挑戦を始め、全豪オープンで予選会を通過した。本戦1回戦では第25シードのカイア・カネピエストニア)に 6-4, 4-6, 6-8 で競り負け、初戦敗退。全仏オープンでは、故障で予選1回戦を途中棄権している。ウィンブルドンにおいて、主催者推薦(ワイルドカード)で13年ぶりの出場を果たしたが、第9シードの18歳、キャロライン・ウォズニアッキデンマーク)に 7-5, 3-6, 1-6 で逆転負けし、初戦突破はならなかった。復帰後WTAツアーレベルでは接戦の試合も見せながらも9戦全敗と、ツアー初勝利の壁に弾かれていたが、そんな中出場したハンソル・コリア・オープン1回戦において地元のYe-Ra Leeを 6-3, 6-4 のスコアで下し復帰後ツアー初勝利を挙げると、2回戦で第5シードのアリサ・クレイバノワロシア)には第2セット第9ゲームでマッチポイントを握られるも 4-6, 7-6(4), 6-3 の大逆転で、準々決勝では第一シードのダニエラ・ハンチュコワスロバキア)を 7-6(3), 4-6, 6-4 で、準決勝では前年大会優勝者のマリア・キリレンコロシア)を 3-6,6-2,6-4 でのスコアでそれぞれ下し決勝戦に進出。決勝ではアナベル・メディナ・ガリゲススペイン)6-3,6-3のストレートで下し、96年のトーシバ・クラシック以来13年振り8度目のWTAツアーシングルス優勝を果たした。38歳11ヶ月30日での優勝は1983年イギリスバーミンガム大会で当時39歳7ヶ月23日でシングルス優勝を果たしたビリー・ジーン・キングアメリカ)の記録に次ぐ歴代2位の年長優勝記録となった[2]

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脚注

  1. ^ nikkansports.com (2007年12月18日). "ナブラチロワさん代役でエキシビションに". 2008年6月20日 閲覧。
  2. ^ 時事通信 (2009年9月27日). "伊達が13年ぶりツアー優勝=史上2番目の高齢V-女子テニス". 2009年9月27日 閲覧。

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