伊東祐帰とは? わかりやすく解説

伊東祐帰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/06 13:32 UTC 版)

 
伊東祐帰
伊東祐帰
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 安政2年11月3日1855年12月11日
死没 明治27年(1894年4月25日
官位 正四位修理大夫
主君 明治天皇
日向飫肥藩
氏族 日向伊東氏
父母 伊東祐相
兄弟 祐帰、徽美、亀井茲明正室、
本堂親久正室、宏子、亀井茲明継室、久
木下俊敦
岩倉具慶文子
酒井忠義久子
祐弘、彜子
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伊東 祐帰(いとう すけより)は、日向国飫肥藩第14代(最後)の藩主、飫肥藩知事

生涯

第13代藩主・伊東祐相の長男。明治2年(1869年)、父が隠居したため家督を継ぎ、まもなく知藩事となる。そして藩の官制改革などを行なっている。明治4年(1871年)の廃藩置県東京に移住する。

明治10年(1877年)の西南戦争においては、継室の養兄である岩倉具視の要請により、飫肥士族に西郷隆盛率いる西郷軍に加担しないよう説得に当たった[1]。同年4月2日、西郷軍に組みしようとした小倉処平ら飫肥隊のもとにも手紙が届いていた[2]が、結果的に小倉らは西郷軍に参加した。

1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[3]。明治27年(1894年)4月25日、東京にて40歳で死去した。鵜戸神宮宮司を務めた[4]

栄典

家族

父母

子女

  • 伊東祐弘(長男)生母は久子(継々妻)
  • 彜子(長女) - 子爵吉田良正の妻

脚注

  1. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、564頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  2. ^ 「飫肥城歴史資料館紀要・読み物編第2集 飫肥西郷と呼ばれた男 小倉処平」
  3. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  4. ^ 『官報』第3252号、明治27年5月5日。
  5. ^ 『官報』第3245号「叙任及辞令」1894年4月27日。
日本の爵位
先代
叙爵
子爵
飫肥日向伊東家初代
1884年 - 1894年
次代
伊東祐弘




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