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伊地知幸介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/12 13:39 UTC 版)
伊地知 幸介(いぢち こうすけ、安政元年1月6日(1854年2月3日) - 大正6年(1917年)1月23日)は、薩摩国出身の陸軍軍人。- ^ 歴史街道2011年11月号p41
- ^ 書簡の日付は7月20日、この時点での第3軍戦力は2個師団程度(第9師団と後備第1師団は未だ合流していない)であり、伊地知の慎重策が誤りとは言えない。
- ^ 後年井口は大本営が早期攻略を迫った為に第一次総攻撃で大損害を被った事を大本営の誤りと認めている。別宮暖朗 『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦 』 並木書房、2005年
- ^ 「井上幾太郎伝」(昭和41年発行)より
- ^ これにより第二次総攻撃以降は第三軍の損害は著しく低下し露軍守備隊の方がそれを上回る様になった。完全包囲された旅順に対し消耗戦を仕掛ける事で徐々に追い詰めた第三軍は要塞正面への攻勢と、続く203高地を巡る戦いで露軍の予備兵力を枯渇させて反撃の手を奪い、要塞正面の突破に成功し降伏に追い込んだ。
- ^ 当時の陸軍首脳部は薩長出身者で占められていたことから、このような人事が行われたと想像されている。当時の四個軍司令官・参謀長の8人中6人が薩長出身者で占められ、満州軍総司令官・総参謀長も薩長出身者であった
- ^ 半藤一利著『日本参謀論』(図書出版社刊 1989年)では、対談の中で秦郁彦は『大変な秀才でドイツに二度も留学しているし、当時の陸軍では最も嘱望された参謀将校の一人だったわけで、確かに乃木司令官とのコンビネーションはうまくいかなかったけれども、公平に見て、それほどひどい参謀長ではなかったと思いますよ。ともかく日露戦争後、男爵になっているんですから。ただ、乃木大将が軍神になったものだから、悪いのはすべて伊地知だ、ということにされてしまった。たとえば、彼が第三軍参謀になったのも、大山元帥の女婿だから、つまり情実人事だというのが定説になっていますが、実は妻君が大山の姪ですから、親類ではあったけれども女婿じゃないんです。そういうところから話が膨れていくわけです』と述べている。
- ^ 桑原嶽著『名将乃木希典』(中央乃木会刊2000年)より。また桑原氏は「平時ならばとにかく一国の存亡を賭けた大戦争で、一軍の安危を担う将帥の人事を、まるで自民党の派閥人事と同一視している司馬氏の浅薄な考えは、彼独特の偏見と独断から生まれたもので、ただ滑稽というより他に言いようはない」と藩閥調整人事であるという司馬氏の見方を厳しく批判している。
- ^ 攻撃目標は「根拠地の覆滅」であり「旅順艦隊の撃滅」ではないということ
- ^ 旅順艦隊の問題についても、第3軍の攻撃によって守備兵力及び砲弾薬の欠乏に陥った要塞を援護するために、旅順艦隊は艦載砲を陸揚げして乗組員を陸上戦闘に充てることになり、結果、旅順艦隊の戦闘能力は事実上失われていた。第3軍が要塞攻略に固執したことによって、旅順艦隊の無力化という目的も達成されていたことになる。(成美堂出版、『近代戦の先駆 日露戦争』P88記述より)
- ^ 歴史街道2011年11月号p49
- ^ 『激闘旅順・奉天 - 日露戦争陸軍“戦捷”の要諦』歴史群像シリーズ59号、学習研究社、1999年。P104記述より
- ^ 「旅順攻略意の如くならざるは一に砲弾の不足にありとの事を、貴軍参謀長がしばしば公言せりとは、戦地より帰来せる者の風聞として聞き及ぶところなり」『公爵山県有朋伝』
- ^ 前原透『日本陸軍用兵思想史』(天狼書店、平成6年)405P
- ^ 長南政義「坂の雲に描かれなかった謀将 伊地知幸介」ゲームジャーナル編『坂の上の雲5つの疑問』(並木書房、2011年)
[続きの解説]
「伊地知幸介」の続きの解説一覧
- 1 伊地知幸介とは
- 2 伊地知幸介の概要
- 3 親族
固有名詞の分類
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