今東光とは? わかりやすく解説

こん‐とうこう〔‐トウクワウ〕【今東光】

読み方:こんとうこう

[1898〜1977小説家僧侶政治家神奈川生まれ日出海(ひでみ)の兄。一時文壇から離れて天台宗の僧となるが、その後文壇復帰大阪の風土や人情描いた小説知られる。「お吟さま」で直木賞受賞。他に「春泥尼抄(しゅんでいにしょう)」「悪名」など。昭和43年1968)からは参議院議員務めた


今東光

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今東光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/10 16:21 UTC 版)

今 東光(こん とうこう、1898年明治31年〉3月26日 - 1977年昭和52年〉9月19日)は、横浜生まれの小説家天台宗大僧正(法名 春聽[注釈 1])、中尊寺貫主参議院議員大正末期に新感覚派の作家として出発。その後出家し、長く文壇を離れたが復帰。住職として住んだ河内平泉、父祖の地、津軽など奥州を題材にした作品で人気を得た。週刊誌やテレビでも活躍し、毒舌和尚としても知られた。


注釈

  1. ^ 仏門に入った後は今春聽が戸籍名、今東光が筆名となった。自筆年譜には「午前5時、日輪と共に生る。依て父母之に命名して東光」とある。
  2. ^ 函館商船学校に入学、帆船全済丸、帆船尾張丸、開成丸、明治丸の乗船を経て、明治22年 1889 卒業後、大阪商船会社に入社、明治27年 1894 日本郵船会社に入社。
  3. ^ 当時の東大出の月収が50円だった時代に顧問料は150円。作家業を含めると1000円程の月収があったという。
  4. ^ 多くの年譜が安楽寺住職と記すが事実ではない。
  5. ^ 『東光金蘭帖』中央公論社 1959年/中公文庫 1978年
  6. ^ 1950年、東宝争議後、東宝レッドパージによる組合幹部らの大量解雇に、山本薩夫今井正亀井文夫伊藤武郎岩崎昶東宝退社組が中心となり「新星映画」を設立。1953年には「新世紀映画」を設立した伊藤武郎が、1954年、「北星映画」代表を経て、新たに「新星映画」「キヌタプロダクション」のスタッフを糾合して「独立映画」を設立、社長となりこの工場跡地に中央映画撮影所を建設した(のち 調布映画撮影所)。「ここに泉あり」「真昼の暗黒」「異母兄弟」「人間の壁」などが製作された。
  7. ^ 「天台院小史 今春聽 1953」(東大阪新聞社『河内史談 第参輯』所収P18 には、「天和三(1683)年二月、竪者権大僧都法印念海といふ人が…再建した」とある。念海は 元和九年(1623)の生まれ。父 空運は 及意上人空源の法弟子で、母は 空源の娘。寛永15年(1638年)春、上野 寛永寺一山 三明院 賢海のもと得度、南光坊天海に従い比叡山麓 坂本 大覚寺で加行。坂本 滋賀院にて 天海から 三部灌頂 及び 瑜祇等密教の伝法を受け、比叡山東塔の学頭寺院である 正覚院にて阿闍梨灌頂を修した。賢海示寂ののち 三明院 第二世として入山、かつて天海の命に賢海が兼領していた諸寺も主管し江戸と上方を往還した。念海については、三河 神宮寺にも記録があり、『念海大和尚』「権大僧都法印念海者雖非当院住持当寺累代之住持皆悉潤於海師之息澤故記於此伝聞...念海法印慈眼大師之末弟而住持于武陽下谷坂本三明院今者養玉院云而兼帯山門坂本大学寺(坂本大覚寺)大坂天樹寺(聖龍山天鷲寺:最澄開創 後陽成天皇勅諚寺 空源再興 天海開基 賢海中興)...於山弁流冨於海見聞之衆人悉無不帰敬師平月向人談法華一乗與涅槃佛性...」念海坐像(仏師長五郎作 寛文十一 1671年)も現存する。《東京都品川区指定文化財「木造念海和尚像」旧金光山三明院大覚寺=養玉院蔵)》。天和元年(1681年)、堺 光澤寺を再興し、天和二(1682)年、江戸・養玉院を勇退し西下、大坂 天鷲寺に住した。河内国若江郡・天台院の再興はその翌年の天和三(1683)年である。元禄三(1690)年七月七日遷化 六十八歳。墓処は近江長浜、善光寺近江別院・豊学山東雲寺(北城金光山支院として空源による中興開山)、また天台院再興と同時期、和泉国樽井に開基上人として創建した 南漸寺(現 南泉寺)にも供養塔が現存している。
  8. ^ 文化四(1807)年七月八日寂 春秋百六歳
  9. ^ 短篇集『闘鶏』(角川書店刊 解説平野謙)あとがきで、河内人は「下劣で、ケチン坊で、助平で、短気で、率直で、つまりは僕自身に似た人物」と書いている。
  10. ^ このような作家の宗教者としての内面、深層に触れることなく、直木賞作家=大衆小説作家、通俗作家として、皮相、類型的解釈で摘み取る読者、文壇的関係者は多く、八尾をはじめ河内・大阪周辺では、東光の小説が河内を有名にするどころか「柄の悪い場所」というネガティブな印象を全国に定着させたとして今でも嫌う向きがある。八尾市では何度か彼の彫像建立の計画があったが、上記等の理由で住民の同意を得られず成立していない。
  11. ^ また後には極真会館の顧問も務め、名誉三段も贈られた。極真会館大山倍達氏は「いろいろな作家先生に空手を勧めたが、実際にやられたのは今先生御一人だった。」と語っている[12]

出典

  1. ^ 矢野隆司 「今東光 : 関西学院と東光の生涯」 関西学院史紀要 2005年3月25日 p7
  2. ^ 尾崎秀樹「今東光と歴史文学」(『武蔵坊辨慶(4)』徳間文庫 1985年)
  3. ^ 茶谷十六「解説 悲運の作家生出仁の再生を期す」生出仁『愛闘』(岩手出版 1989第2版[初版1988]):565-587
  4. ^ 岩崎昶『日本映画私史』(朝日新聞社、1977年)による
  5. ^ 『仏教年鑑 1930』
  6. ^ 「独立プロ名画特選」
  7. ^ 「社党、今東光氏追及へ 『自衛隊は人を殺せ』の発言で」朝日新聞1970年6月4日付け夕刊、参議院内閣委員会(第63回国会閉会後)会議録第1号(1970年(昭和45年)7月8日)27頁の矢山有作発言、参議院決算委員会(第63回国会閉会後)会議録第3号(1970年(昭和45年)7月9日)1頁の和田静夫発言。
  8. ^ 昭和文士は迫力十分 大阪・今東光資料館で藤本義一との交流振り返る企画展
  9. ^ 短編集 「人斬り彦斎」「北斎秘画」「写楽の腕」「森蘭丸」「甘い匂いを持つ尼」「信長を刺した女」「八尾別当」
  10. ^ 今東光『十二階崩壊』(中央公論社1978年)p.73
  11. ^ 今東光『十二階崩壊』(中央公論社1978年)pp.150-151
  12. ^ 今東光『毒舌 身の上相談』pp.201-203(集英社文庫1994年
  13. ^ 出版・読書メモランダム”. 出版・読書メモランダム. 2021年7月27日閲覧。





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