人柱伝説
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「大井手堰#鶴女市太郎伝説」も参照 『鶴市根元記』(詳しくは『鶴市八幡宮水道神由来根元記』)には、以下の伝承が記されている。 逆手隈の八幡神鎮祭後、推古天皇朝(6世紀末から7世紀前葉)に再び大旱が起きたので高瀬川に井堰を築いて干害を防がんとした福永(湯屋)弾正在吉であったが、河中に棲む毒蛇毒龍が工事を妨害して難儀していたところ、宇佐八幡からの使いと覚しき3人の女性が在吉の許を訪れて999体の人形(ひとがた)を堰に築き込めれば毒蛇毒龍の妨も治まるであろうと説き、その教えに従った在吉によって堰も完成し旱害の難も除かれた。その後、洪水による度重なる井手の決潰があったために、保延元年(1135年)、当時一帯を支配していた福永(湯屋)弾正基信他6人の地頭(これを七地頭と称す)が堅固な井手を築造せんことを協議し、基信が推古天皇朝の故事に倣って人柱を立てることを発議すると、七地頭の中からその人物を選ぶことに決した。 各自の袴を高瀬川上流の小島崎から投流して最初に沈んだ袴の主をそれと定めるよう約したところ、基信の袴が最初に沈んだ。発議者の定めであり神意でもあろうと覚悟した基信に対し、湯屋家累代の家臣である古野源兵衛重定の女(むすめ)にお鶴当時35歳(一に29歳とも21歳とも)があって累代の恩顧に報いようと基信の身代わりになることを申し出、小鶴の子で13歳になる小市郎も母と共に人柱に立つことを願ったために、その赤誠に感じた基信もこれを承諾、母子を自身の妻子となし8月15日を定めて井手に築き込めることとした。 当日井手の場所に到着したお鶴は形見にと髪を切り石に腰を掛けて井手を拝み、自身を八幡神の化身で井手の神体となるために基信の妻ともなったとの託宣を発した後に小市郎と共に築き込められたが、その直後に河中から金色の光が現じて当神社の方へ棚引くと共に社殿も扉を開いて震動したので、集まった人々は真に八幡神の化身であったことを悟り、母子を顕彰すると共に完成後の井路の守護神と為さんとその霊を「鶴市大明神」と号し崇めた。なお、お鶴の遺髪は藍原村の髪の毛という場所(現相原小字神ノ木)に埋めて墓所と為し、腰掛石にはお鶴の手足の跡が遺されている。 この『根元記』は湯屋家に伝わる文書で弘治元年(1555年)の奥書を有すが、これは元和2年(1616年)の上記『井手鈔』も同じである。そのため、『井手鈔』に七地頭の件り等が見えないことを以てこれを『井手鈔』を元に加筆された元和2年(1616年)以降に編まれたものと見なし、その『井手鈔』に見える伝承自体も近世の創作であろうと説くものもあるが、その信仰が中津平野全体にわたり、一帯が平安時代以来宇佐宮と同宮の神宮寺である弥勒寺の荘園とされたことと、湯屋氏が同宮神官を世襲した宇佐氏の流れと伝えることから、湯屋某が開発領主として一帯の庄園化に関わる過程で大井手築造の主体ともなったという史実が背景にあったものと見ることができる。 また、御霊信仰とそれを包含した八幡信仰の影響も窺える。前者は非業の死を遂げた人物の霊を御霊と称し、その祟りを恐れる反面で祟る力を逆に共同体秩序の安寧に寄与するものへ転化させようと期待して神に祀る信仰で、それは人柱として犠牲となった母子の霊を慰め水路の神として崇める点に認められるが、柳田國男は、同時に水に投じられて神となった女性の名を「鶴」とする伝承が日本各地に散在する点にも関心を示している。一方、宇佐宮に発生した後者においては、それら御霊を八幡神が眷属神として統御するという思想があり、柳田は、宇佐宮周辺で見られる八幡神に統御される御霊に「市」という名を与える例との関わりの可能性を指摘している。 そして、それらを踏まえて最も注目されるのは、この伝説には細部を異にする複数の別伝がある中で、お鶴の位置があるいは弾正基信の妻であると説かれ、あるいは下女や妾と説かれる等一定しないのに対し、子である小市郎は全ての伝えがその父の誰であるかを説かないままにお鶴に必伴させてあたかも所与の存在であったかのように扱っている点である。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}そこにはお鶴を神に選ばれた女性としてその処女懐胎を説くと同時に小市郎を「父無くして生まれた神の子」と見る思想、八幡信仰の原初形態の一と考えられる母と子を一組にして神と崇め、その両者を所謂「水の辺の母子神」の形で多く水辺に祀る母子神信仰の遠い記憶が遺されているものと思われる[誰によって?]。
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人柱伝説
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服部大池の築造は大変な難工事であったために堤に「人柱」が捧げられたとの言い伝えがある。それによると人柱にされたのは病気の母親に代わり人夫として夫役に出ていた16歳のお糸であったとされ、彼女が選ばれた理由は『着物に横つぎが当たっていて、未婚の娘』(貧しい処女であるという意味)であったからだという。また、伝説には後日談があり、お糸には恋人の若者がおり毎夜池の堤でお糸の名を呼び続け、ついには池に身を投げてしまった。それを知った人々が二人の霊を慰めるために弁財天を祀ったうえで松と槙を植えた。後に2人の魂がひとつになろうとしているかのように2本の根が絡み合い、やがて『比翼の松』と呼ばれるようになったという(現在では枯れてしまい、お糸大明神に祀られている)。 この話は地元では事実として信じるひとも多いが、江戸時代の文献にはこれに類する話は全く存在せず、石碑は何れも後年に造られたものである。また堤の改修工事で人骨が見つかったという話も存在しない。しかしながら話自体は昭和初期頃には市井に広まっていたようで、当時からその信憑性を疑う声はあったが、戦後には市内小学校の同和道徳教育の教材に用いられたことなどから、話の信頼性が高まったようである。
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人柱伝説
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堤防工事終了の際、神仏加護のために人柱として葬ったという話が富士市には残っている。 堤防工事に莫大な費用と50年という歳月が掛かっているにもかかわらず、水害の解決には至っていなかった。そのため人々は、神仏のご加護に頼るしかないと考え、富士川を西岸の岩渕地域から渡ってくる1000人目を人柱にたてる計画をした。 とある秋のこと、夫婦で東国の霊場を巡礼中に富士川を渡ってきた老人の僧が1000人目にあたった。地元の人々が説明をしたところ、最初は驚かれたが「私の命が万民のお役に立てば、仏に仕える身の本望です」と快く引き受けてくださり人々は涙した。(人柱になった僧自身は999人目か1001人目で、1000人目が家族あるもので、それを見かね自ら人柱を志願したとも言われている。) 人柱は、堤防を何度築いても流されてしまう、雁堤の特徴とも言える曲がり角に埋められることになった。僧は埋められる事前に「鈴の音が止んだ時が自分が死んだ時である」と言い残して地中へ潜った。木製の箱に入れられ、人柱として土に埋められた後も、約21日間ほどに渡って空気坑から鈴の音は聞こえたという。 人柱が埋められた雁堤の曲がり角のり面には人柱を祭神とした護所神社があり、現在も地域住民により毎年7月に祭礼が行われている。
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