人柱伝説とは? わかりやすく解説

人柱伝説

作者桜澤麻衣

収載図書本当は怖い日本童話―残酷で妖艶な男と女物語
出版社G.B.
刊行年月2008.8


人柱伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 03:56 UTC 版)

八幡鶴市神社」の記事における「人柱伝説」の解説

大井手堰#鶴女市太郎伝説」も参照根元記』(詳しくは『八幡宮水道由来根元記』)には、以下の伝承記されている。 逆手隈の八幡神鎮祭後、推古天皇朝(6世紀末から7世紀前葉)に再び大旱起きたので高瀬川井堰築いて干害を防がんとした福永湯屋弾正在吉であったが、河中に棲む毒蛇毒龍工事妨害して難儀していたところ、宇佐八幡からの使いと覚しき3人の女性が在吉の許を訪れて999体の人形ひとがた)を堰に築き込めれば毒蛇毒龍の妨も治まるであろう説き、その教え従った在吉によって堰も完成し旱害の難も除かれた。その後洪水による度重なる井手決潰があったために、保延元年1135年)、当時一帯支配していた福永湯屋弾正基信他6人の地頭(これを七地頭称す)が堅固な井手築造せんことを協議し、基信が推古天皇朝の故事倣って人柱立てることを発議すると、七地頭の中からその人物を選ぶことに決した各自の袴を高瀬川上流小島崎から投流して最初に沈んだ袴の主をそれと定めるよう約したところ、基信の袴が最初に沈んだ発議者の定めであり神意でもあろうと覚悟した基信に対し湯屋家累代の家臣である古野源兵衛重定の女(むすめ)にお鶴当時35歳一に29歳とも21歳とも)があって累代恩顧報いようと基信の身代わりになることを申し出小鶴の子13歳になる小市郎も母と共に人柱に立つことを願ったために、その赤誠感じた基信もこれを承諾母子自身妻子となし8月15日定めて井手築き込めこととした。 当日井手の場所に到着したお鶴形見にと髪を切り石腰を掛けて井手拝み自身八幡神化身井手神体となるために基信の妻ともなったとの託宣発した後に小市と共に築き込められたが、その直後に河中から金色の光が現じて当神社の方へ棚引くと共に社殿も扉を開いて震動したので、集まった人々真に八幡神化身であったことを悟り母子顕彰すると共に完成後の井路の守護神と為さんとその霊を「市大明神」と号し崇めた。なお、お鶴遺髪藍原髪の毛という場所(現相原小字神ノ木)に埋めて墓所為し腰掛石にはお鶴の手足の跡が遺されている。 この『根元記』は湯屋家に伝わる文書弘治元年1555年)の奥書有すが、これは元和2年1616年の上記『井手鈔』も同じである。そのため、『井手鈔』に七地頭の件り等が見えないことを以てこれを『井手鈔』を元に加筆された元和2年1616年以降編まれたものと見なし、その『井手鈔』に見え伝承自体近世創作であろう説くものもあるが、その信仰中津平野全体にわたり、一帯平安時代以来宇佐宮と同宮の神宮寺である弥勒寺荘園とされたことと、湯屋氏が同宮神官世襲した宇佐氏流れ伝えることから、湯屋某が開発領主として一帯庄園化に関わる過程大井手築造主体ともなったという史実背景にあったものと見ることができる。 また、御霊信仰とそれを包含した八幡信仰影響窺える前者非業の死遂げた人物の霊を御霊称し、その祟り恐れ反面祟る力を逆に共同体秩序安寧寄与するものへ転化させよう期待して神に祀る信仰で、それは人柱として犠牲となった母子の霊を慰め水路の神として崇める点に認められるが、柳田國男は、同時に投じられて神となった女性の名を「」とする伝承日本各地散在する点にも関心示している。一方宇佐宮に発生した後者においては、それら御霊八幡神眷属神として統御するという思想があり、柳田は、宇佐周辺見られる八幡神統御される御霊に「市」という名を与える例との関わり可能性指摘している。 そして、それらを踏まえて最も注目されるのは、この伝説には細部異にする複数別伝がある中で、お鶴位置があるいは弾正基信の妻であると説かれ、あるいは下女や妾と説かれる一定しないのに対し、子である小市郎は全ての伝えがその父の誰であるかを説かないままにお鶴に必伴させてあたかも所与存在であったかのように扱っている点である。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}そこにはお鶴を神に選ばれ女性としてその処女懐胎説く同時に小市郎を「父無くして生まれた神の子」と見る思想八幡信仰原初形態の一と考えられる母と子一組にして神と崇め、その両者所謂水の辺の母子神」の形で多く水辺祀る母子神信仰の遠い記憶が遺されているものと思われる[誰によって?]。

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人柱伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/22 07:36 UTC 版)

服部大池」の記事における「人柱伝説」の解説

服部大池築造大変な難工事であったために堤に「人柱」が捧げられたとの言い伝えがある。それによると人柱にされたのは病気母親代わり人夫として夫役出ていた16歳お糸であったとされ、彼女が選ばれ理由は『着物に横つぎが当たっていて、未婚の娘』(貧し処女であるという意味)であったからだという。また、伝説には後日談があり、お糸には恋人若者がおり毎夜池の堤でお糸の名を呼び続けついには池に身を投げてしまった。それを知った人々二人の霊を慰めるために弁財天祀ったうえで植えた。後に2人の魂がひとつになろうとしているかのように2本の根が絡み合い、やがて『比翼』と呼ばれるようになったという(現在では枯れてしまい、お糸大明神祀られている)。 この話は地元では事実として信じるひとも多いが、江戸時代文献にはこれに類する話は全く存在せず石碑何れも後年造られたものである。また堤の改修工事人骨見つかったという話も存在しないしかしながら自体昭和初期頃には市井広まっていたようで、当時からその信憑性を疑う声はあったが、戦後には市内小学校同和道徳教育教材用いられたことなどから、話の信頼性高まったようである。

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人柱伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:36 UTC 版)

雁堤」の記事における「人柱伝説」の解説

堤防工事終了の際、神仏加護のために人柱として葬ったという話が富士市には残っている。 堤防工事莫大な費用50年という歳月掛かっているにもかかわらず水害解決には至っていなかった。そのため人々は、神仏ご加護に頼るしかない考え富士川西岸岩渕地域から渡ってくる1000人目人柱にたてる計画をした。 とある秋のこと、夫婦東国霊場巡礼中に富士川渡ってきた老人の僧が1000人目あたった地元人々説明をしたところ、最初驚かれたが「私の命が万民お役立てば、仏に仕える身の本望です」と快く引き受けてくださり人々涙した。(人柱になった自身999人目か1001人目で、1000人目家族あるもので、それを見かね自ら人柱志願したとも言われている。) 人柱は、堤防何度築いて流されてしまう、雁堤特徴とも言える曲がり角埋められることになった。僧は埋められる事前に鈴の音止んだ時が自分死んだ時である」と言い残して地中潜った木製の箱に入れられ人柱として土に埋められた後も、約21日間ほどに渡って空気坑から鈴の音聞こえたという。 人柱埋められ雁堤曲がり角のり面には人柱祭神とした護所神社があり、現在も地域住民により毎年7月祭礼が行われている。

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