京阪神緩行線
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京阪神緩行線(けいはんしんかんこうせん)は、京都府京都市の京都駅から大阪府の大阪駅および兵庫県神戸市の神戸駅を経由して明石市の西明石駅まで(いわゆる京阪神地区)を結び、東海道本線京都駅 - 神戸駅間と山陽本線神戸駅 - 西明石駅間の複々線区間の内側線および海側線(電車線)[1][2][注 1]で運行される各駅停車(普通)電車の通称(系統名)である[3][4][5]。この区間は、国鉄分割民営化による西日本旅客鉄道(JR西日本)の発足後の1988年(昭和63年)にJR京都線およびJR神戸線という愛称が付いている[6][7]。
注釈
- ^ a b ただし、内側線(電車線)は方向別複々線区間の草津駅 - 兵庫駅間までで、兵庫駅 - 西明石駅間は兵庫駅 - 鷹取駅間で内側線(電車線)が外側線(列車線)の下り線を立体交差した後は、山側に列車線、海側に電車線の線路別複々線となっている[1][2]。
- ^ 例として、1949年9月15日改正の宮原区電車運用表が鉄道史料103号に採録されている[9]。
- ^ ただし、同区間を全線運行する電車はない(後節を参照)
- ^ この地域で二等車の需要が高かったことを示すものとして、『レイル』53号掲載の「戦前の鉄道の思い出雑記 その1」内に、「(前略)その客層は土地がら、比較的豊かな人たちであったように思う。その豊かな一例として、この通勤列車でも二等車を一輌半連結していて、(後略)」という一文があり、神戸市西部の住宅地に住んでいた富裕層向けに二等車を連結していたことが記されている。また、京浜線での二等車連結の事情については、『鉄道ピクトリアル』1992年7月号に記述がある。
- ^ このころには三等車の背ずりも布張りに変更
- ^ このときは横須賀線と京阪神間の急電は除外された。
- ^ ただし、急行編成は除く。
- ^ 後にモハ64028を経て最終はクモハ31002
- ^ 元クロハ59022の改造で、とりあえずクハ55の連番として出場。クハ85026を経て最終はクハ79056
- ^ モハ42の4扉改造車はモハ42のままモハ32(2代目)に改番
- ^ 後には宮様の戦車学校通学に伴い中央・総武緩行線に転属
- ^ 現在の川崎重工明石工場、当時は陸軍の戦闘機「飛燕」などを製造していた。
- ^ 1946年2月1日から一般客の取扱いも開始。
- ^ 流電や半流モハ43のサハも含む
- ^ 63系をトレードした城東・西成線には、サロハ66改造のサハ78や、クハ47改造のクハ85が転入している。
- ^ 通常はニス塗り
- ^ 当時の普通二等車は青色
- ^ 正真正銘の「電車の特ロ」は、1958年に151系特急型電車の2等座席車サロ151形で実現。
- ^ ただしこのころの横須賀線は通勤路線との位置付けであって、セミクロス車が走るからといっても近郊路線ではない。
- ^ 上郡駅 - 倉敷駅、岡山駅 - 宇野駅間
- ^ 主に準急「比叡」などの153系化によって捻出された300番台車が多かった。
- ^ 日中時間帯を中心に4両運行が残っていたため、全列車の7両統一は1972年3月15日
- ^ 阪神武庫川線への貨物線跡地を転用
- ^ 結局モーターの耐寒耐雪改造の関係でモハ70となる
- ^ 流電用サハ48の3扉改造のサハ58も含む
- ^ この中には、一度京阪神緩行線から転出した車両や京阪神緩行線唯一の70系300番台全金属車であるクハ76305が含まれていた
- ^ サハ58は岡山に転出
- ^ 日中の着席サービスとラッシュ時の混雑緩和のどちらを優先順位とするかの問題であるが、1960年代は輸送人員の多い(つまり関連する乗客の多い)ラッシュ輸送の改善を第一にすることを優先して進めていた。なお昭和37年度鉄道統計年報によると年間200万人以上の定期通過人員を有する駅は茨木駅 - 垂水駅間の各駅であった。
- ^ 鉄道ピクトリアル1964年4月号に昭和38年11月現在の混雑率が掲載されており、快速・緩行ともに300%前後の数値となっているほか、同号には塚本駅に停車中の4扉通勤車の乗降シーンの写真もあり、ドアからはみ出した乗客の姿から4扉でも乗車するのが困難な状況を物語っている。その状況では3扉セミクロスシート車が通勤輸送に適さないことは明確であり、4扉ロングシート化はラッシュ改善に早急に求められていた。
- ^ 阪急2800系・京阪1900系など
- ^ 実際の運行計画を立てるに当たっては、消費電力量なども要素として重要であり、車両設計事務所の川添氏は鉄道友の会会誌にて京阪神緩行線などは113系のような車両が適していると思われるが消費電力量を計算すると103系の方がメリットがある点に触れている。速度を高めるには力行時間が長くなるため相応の電力を消費しなければならないので、むやみやたらと高速で走れば良いという物でもなく、到達時間と消費電力量などバランスの取れた運行計画を立てることになるが、その運行計画上103系は駅間距離4 kmなどであっても他系列よりも運転時分や消費電力量では有利であった。(参考:RAILFAN1986年1月号・電気車の科学1975年1月号)。
- ^ 1972年3月改正で草津駅 - 高槻駅間は95 km/hから110 km/hに、高槻駅 - 神戸駅間は95 km/hから100 km/hに最高速度が引き上げられている
- ^ 改正により京都駅 - 神戸駅は90 km/hから95 km/hに引き上げられたが、103系の投入により京都駅 - 神戸駅は95 km/hから100 km/hに引き上げられた
- ^ 吹田駅 - 甲子園口駅間では6本が8本に増発された。
- ^ 中でもクモハ51010は中央線投入組の生き残りで、新造時のままのガーランドベンチレーター装備車であったほか、残りの3両 (51028, 51038, 51056) はモハ51形として新製されて以来、京阪神緩行線の生え抜きであった。
- ^ なかには1958年に製造された最初期の車両さえ含まれていた。
- ^ 高速域から回生ブレーキを使えるというやや無理な要望が盛り込まれた車両であったが、搭載されたMT60型モーターが150kWと高出力であり、電機子チョッパ制御装置も将来近郊用に使用することを想定して開発されたものであったために、総体として高い高速性能を持っていたほか、台車も空気ばねでシュリーレンタイプのDT46系台車を装備して、103系のDT33系台車に比べて乗り心地(特に高速域)も良く、図らずして京阪神緩行線の特色に見事にフィットした車両となった。
- ^ このとき置き換えられた103系は、スカイブルーのまま片町線・関西本線に投入されたほか、余ったT車は阪和線に投入されて快速の8両化に充当された。また、一部の編成は運用ごと明石電車区に転属して、高槻電車区の配置は201系のみとなった。
- ^ このときの103系捻出車は冷房車だけでなく1次改良車の非冷房車も含まれており、冷房改造して転出した編成と非冷房のまま転出した編成があった。また、余剰のT車は浦和電車区・松戸電車区など首都圏の電車区に移籍している。
- ^ 201系の増備はこれをもって中止され、その後はステンレス車体で界磁添加励磁制御の205系に移行した。
- ^ ただし、その代償として新快速の大阪駅 - 三ノ宮駅間の運転時分は2 - 3分遅くなっている。分割運行のボトルネックになる部分は大阪駅 - 芦屋駅間であり、この区間は103系電車が有利とされる駅間平均距離3 - 4 kmの区間である。
- ^ この非冷房編成は翌年に阪和線ATS-P化のために日根野配属の非冷房車とトレードされることになったが、このとき転入した編成は普通電車用車両初の全車中古編成で、M'M2ユニットとT、西明石側のTcは山手線からの流れ組、京都側のTcはクハ101改造のクハ103-2052という中古車揃いだった。
- ^ 営業運行を外された非冷房編成はしばらく訓練車として使用されたが、後にM'M2ユニットはWAU102冷房改造と延命NB工事を実施、TとTcは廃車された。
- ^ 1993年には207系が投入されたJR宝塚線から高運転台Tcの編成が転入、中間車を差し替えて先頭車とM'Mユニットは広島に転属して、普通電車用としての103系の最後の活躍に花を添えた。
- ^ このとき捻出された103系は、岡山電車区・広島運転所・奈良電車区に転出、古い非冷房の113・115系を置き換えた。
- ^ 高槻駅 - 京都駅間の各駅では、この区間で各駅に停車する快速とあわせて、実質的に運行本数が増えた。
- ^ この時に外部の帯色は321系に準じたものに一旦変更されたが、2013年の阪和線への再転出後は元の帯色に戻された。
- ^ 夕方と夜間の西明石発近江舞子行き、朝ラッシュ時の堅田発西明石行き。その間合いで夜間から深夜に掛けての湖西線内の一部列車に京阪神緩行線車両の運用が存在していた(そのうちの一部は湖西線内を回送で運転)。
- ^ 0時34分発。JR西日本の京都 - 南草津駅間の駅設置の時刻表ではこの列車と朝ラッシュ時のピーク時に運転される草津直通の緩行線列車(この列車は草津到着後野洲に回送し、夕方ラッシュ時開始直前に野洲から京都まで回送され京都から緩行線の営業列車となる)の各1本、草津 - 守山駅間の駅設置の時刻表ではこの列車のみ女性専用車がある旨が記載されている。
- ^ 復路は翌日早朝に野洲から京都まで回送で運転。
- ^ 通過する列車は"M"
- ^ 1964年9月30日までは尼崎駅での折り返し
- ^ 51系の場合は、中央扉の前位(神戸寄り)に設置。
- ^ ごくまれにではあるが、更新修繕後も行先表示幕窓を残した車両があった。
- ^ 『関西国電50年』には、1950年8月に尼崎駅で撮影されたクハ55107(元サロハ46形改造のクロハ59形を戦時中に3扉改造したもので、クロスシート改造後はクハ68107。掲載当時は連合軍専用車から変更された2等車として運用中)の写真が掲載されており、年代としては早期の部類に属する。
- ^ 明石行そのものの運行本数が少なかったことから、現存する写真がきわめて少なく、入手・閲覧が容易なものは『鉄道ピクトリアル』2011年6月増刊号(P95)掲載のものが現時点で唯一のものであるといえる。しかもこの写真は、営業運行中のモハ32(モハ42の4扉改造車)を写した、二重の意味で貴重なものである。
- ^ 1969年に転入した全金属改造車のクモハ73900,902やクモハ73形鋼体改造車のうち、前面行先表示器を設置したもの。
- ^ 京阪神緩行線に限らず、関西国電では大阪環状(城東・西成)、片町、阪和の各線においても72系前面行先表示器設置車両の表示器を使用せず、行先表示板の掲示を継続している。
- ^ 『鉄道ピクトリアル』2003年5月号に、京都駅における行先表示板交換の写真が掲載されているが、片足をプラットホームに預け、もう片足を連結器の上に乗せて、重いホーロー板の表示板を交換していることから、かなり危険な作業であることがうかがえる。
- ^ 新旧表示板の切り替え時期については、1963年中に新旧両タイプの行先表示板を掲示している写真が残されていることから、具体的な切り替え時期については不明。
- ^ 51系が転出した岡山地区においても、同じデザインの行先表示板が使用されている。
- ^ この時期においても72系前面行先表示器設置車両の表示器は使用されていない。
- ^ この時期101・103系といった新性能車と旧型車が混在していた片町、阪和の各線では、101・103系は前面行先表示器を使用し、旧型車は行先表示板を掲出していた。
- ^ 201系や205系を含む。
- ^ なお、103系の「普通」表示は、紺地に白字と白地に黒字の2種類があった。
- ^ クハ205-35の編成。
出典
- ^ a b c d e f 祖田圭介「複々線を探る 複雑な多線区間 東海道・山陽本線 草津-西明石間」『鉄道ファン2001年2月号 特集:短絡線ミステリー4 複々線を探る』第41巻第2号(通巻478号)、交友社、2001年2月1日、16 - 19頁。
- ^ a b c d 祖田圭介「東海道・山陽本線の複々線区間」『鉄道ファン2010年5月号 特集:短絡線ミステリー10 〜都心を貫く直通運転を探る〜』第50巻第5号(通巻589号)、交友社、2010年5月1日、35 - 39頁。
- ^ a b c d 毛呂信昭「4 線区別運転の変遷 京阪神緩行線」『103系物語 戦後日本の高度成長を支えた通勤型電車』JTBパブリッシング〈キャンブックス 鉄道 121〉、2012年7月1日、99 - 101頁。
- ^ a b c 寺本光照 著「103系の運転を振り返る 1. 103系運転の歴史をたどる 誕生〜1979(昭和54)年」、江頭誠 編『103系メモリアル』交通新聞社〈トラベルMOOK〉、2014年1月8日、107 - 109頁。
- ^ 土屋武之、杉山淳一、平賀尉哲、高橋茂仁 著「国鉄通勤路線前カタログ 東海道・山陽緩行線」、二之宮隆 編『昭和60年代の国鉄通勤電車』双葉社〈双葉社スーパームック〉、2017年1月28日、72頁。
- ^ a b c 毛呂信昭「6 JR各社の運用 JR西日本 京阪神緩行線(JR京都線、JR神戸線)」『103系物語 戦後日本の高度成長を支えた通勤型電車』JTBパブリッシング〈キャンブックス 鉄道 121〉、2012年7月1日、166 - 169頁。
- ^ a b c 土屋武之、杉山淳一、平賀尉哲、高橋茂仁 著「国鉄通勤路線前カタログ 東海道・山陽緩行線」、二之宮隆 編『昭和60年代の国鉄通勤電車』双葉社〈双葉社スーパームック〉、2017年1月28日、75頁。
- ^ a b 亀井一男「京阪神で一番速い電車の半世紀」『鉄道ジャーナル 1987年11月号』第21巻第13号、鉄道ジャーナル社、1987年11月、28 - 32頁。
- ^ a b 『鉄道史料103号』、「宮原区電車運用表 1949年9月15日改正」
- ^ a b 大熊孝夫「特集:究極の標準形通勤電車103系」『鉄道ファン2006年5月号』第46巻第5号(通巻541号)、交友社、2001年2月1日、27 - 29頁。
- ^ a b 土屋武之、杉山淳一、平賀尉哲、高橋茂仁 著「国鉄通勤路線前カタログ 東海道・山陽緩行線」、二之宮隆 編『昭和60年代の国鉄通勤電車』双葉社〈双葉社スーパームック〉、2017年1月28日、72 - 75頁。
- ^ a b 平石大貴「103系電車 新製車のあゆみ」『鉄道ピクトリアル2018年1月号【特集】103系電車』第68巻第3号(通巻第943号)、電気車研究会、2018年1月1日、18頁。
- ^ 『JR時刻表』2012年3月号、交通新聞社、「東海道本線・山陽本線(米原-岡山)」時刻頁
- ^ a b 『JR時刻表』2013年3月号、交通新聞社、「東海道本線・山陽本線(米原-岡山)」時刻頁
- ^ 日本交通公社『国鉄監修 交通公社の時刻表』各年各号「主な駅のご案内 京都駅のりば案内」掲載頁
- ^ 日本国有鉄道(謹呈版も含む)『時刻表』各年各号「主な駅のご案内 京都駅のりば案内」掲載頁
- ^ 日本交通公社『交通公社の時刻表』1988年4月号までの各年各号「主な駅のご案内 京都駅のりば案内」掲載頁
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- ^ 『京阪神からの旅行に便利な交通公社の時刻表』(日本交通公社関西支社編)1957年1月号に掲載された1956年11月19日改正の神戸駅時刻表によると、朝夕に約20分間隔で住吉行・鷹取行の列車が設定されている。1957年11月号(1957年10月1日改正時刻)では消滅している。
- ^ 205系が東海道・山陽緩行線で運用開始 - 『鉄道ファン』交友社 railf.jp鉄道ニュース 2011年3月14日
- 1 京阪神緩行線とは
- 2 京阪神緩行線の概要
- 3 概要
- 4 旅客案内
- 5 使用車両
- 6 脚注
京阪神緩行線
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C3編成(クハ201-63以下7連) C11編成(クハ201-89以下7連)ベンチレーターが撤去されている 関西初の201系の投入線区は東海道・山陽本線の緩行線(京阪神緩行線)となり、国鉄時代の1983年2月21日から京都駅 - 西明石駅間で営業運転を開始した。編成は103系と同じ7両編成で、車体塗装色はスカイブルー(青22号)となった。 昭和56年度第3次債務で56両(7両編成8本)、昭和57年度本予算で14両(7両編成2本)の計10編成70両は高槻電車区に、昭和57年度第1次債務で42両(7両編成6本)、昭和57年度第4次債務で42両(7両編成6本)、昭和58年度本予算で7両(7両編成1本)の計13編成91両が明石電車区に、昭和58年度第2次債務で63両(7両編成9本)は明石電車区に配置され、32編成224両の陣容となった。201系の投入により余剰となった103系は他区所に転属し、101系など老朽車両の置き換えがなされた。 1985年3月14日ダイヤ改正では運用区間を草津駅 - 加古川駅間に拡大するとともに、昼間の普通列車の運転区間を京都駅までから高槻駅までに短縮し、快速列車が高槻駅 - 京都駅間で各駅停車となった。これにより、昼間の普通列車は増備車を導入せずにすべて201系で運行されるようになった。 1986年3月3日のダイヤ改正では、高槻電車区の201系が明石電車区に転属し、京阪神地区の201系は明石電車区に集中配置されることになった。1986年11月1日のダイヤ改正では、京都駅・高槻駅 - 西明石駅・加古川駅間の直通系統に加えて甲子園口駅と吹田駅で折り返す系統を運行する「串刺しダイヤ」が解消され、日中の高槻駅 - 神戸駅間が増発された。この時の増備車は201系ではなく、205系の7両編成4本となった。 JR西日本発足以来、明石電車区所属の103系・205系とともに東海道・山陽本線の各駅停車で運用されていたが、1994年3月1日ダイヤ改正から207系1000番台(吹田工場高槻派出所所属)が運用を開始し、103系を完全に置き換えた。これによる本系列の廃車は発生していないが、103系の運用を持ち替える形で湖西線系統(京都駅・山科駅 - 堅田駅間)での運用が追加された。 1996年7月20日のダイヤ改正では、日中の神戸駅折返し列車が須磨駅発着に延長された。1997年3月7日のダイヤ改正ではJR東西線が開業した。東西線関連を中心に207系が運用を拡大し、201系・205系は日中は高槻駅 - 須磨駅間の運用となった。 1997年9月1日ダイヤ改正でJR宝塚線新三田駅発着系統と京都線が一体化し、201系も新三田駅まで乗り入れを開始した。1998年10月3日のダイヤ改正では、日中の須磨駅折返し列車がすべて西明石駅発着に統一され、時間帯により大久保駅で折り返す列車も設定された。 2000年4月1日付の組織改編に伴い、鷹取工場と網干電車区が統合されて網干総合車両所となり、明石電車区の検修部門も網干総合車両所明石支所となった。 2000年4月28日より、夜間の湖西線の混雑緩和策として、113系4両編成で運転されていた京都 - 永原間1往復で平日のみ201系(ほか205系・207系)の投入が行われた。201系による永原乗り入れは同年9月22日まで行われ、9月23日のダイヤ修正以降は113系4両編成2本併結の8両編成により運転された。 スカート(簡易排障器)は1991年度にJR東日本とは異なるタイプが、2004年から従来型より大型で鉄板を厚くしたタイプが設置された。1998年から、座席モケットが207系に準じたシーマンブルーに変更され、ATS-Pの搭載が1998年8月から2001年3月までに全編成に対して行われた。座席モケットの交換及びATS-Pの搭載は網干電車区と鷹取工場で行われた。 2001年7月1日に和田岬線が電化され、明石支所に103系の6両編成が投入されたが、1編成しかないため検査時等は201系・207系による代走が行われるようになった。201系が代走に入る場合、7両編成からサハ201形を外した6両編成で運用されていた。 弱冷車サボ受けが全車の片側2か所に設置された。施工時期によってビス止めタイプと溶接タイプがあったが、転属に前後して撤去され、2002年以降には雨水の侵入により屋根の腐食の原因となる屋根上のベンチレーター(通風器)の撤去がC4編成(クハ201-64以下7連)から順次行われ、2005年以降は体質改善工事施工車に限り同時施工された。 2003年11月からは、大阪環状線などの103系体質改善40N工事車に倣った「体質改善工事」(30N)が開始された(詳細は#体質改善工事を参照)。 また体質改善工事施行前から、側面方向幕を国鉄形式の白地黒文字からJR形式の黒地白文字のものに交換した車両もある。交換は編成単位ではなく、編成内で幕が違うものも見られた。前面方向幕の「高槻」のローマ字表記は、ほとんどが「TAKATSUKI」(ヘボン式)だが、一部の車両では「TAKATUKI」(訓令式)も存在した。 2004年3月13日ダイヤ改正時点では、東海道・山陽本線の西明石駅 - 京都駅間を主体に運用されており、201系と205系、207系試作車と共通運用とされた。加古川駅へは平日朝ラッシュの3往復、草津駅への乗り入れは1往復(平日朝夕ラッシュ)のみが乗り入れた。福知山線では朝晩のみ尼崎駅 - 新三田駅間で運用され、大阪駅発着列車は東西線開通前と同じく外側線経由で塚本駅を通過していた。湖西線へは平日朝ラッシュのみ1往復が堅田駅まで乗り入れた。 2004年6月1日、網干総合車両所明石支所は網干総合車両所明石品質管理センターに改称された。 2005年12月1日から2006年12月にかけて321系が273両(7両編成39本)投入されたため、2007年3月18日のダイヤ改正をもって定期運用を離脱し、大阪環状線と関西本線(大和路線)に転用された。 東海道・山陽本線(京阪神緩行線)用編成 ← 草津・京都 西明石・加古川 → 号車7 6 5 4 3 2 1 形式 クハ201(Tc) ◇モハ201(M) モハ200(M') サハ201(T) ◇モハ201(M) モハ200(M') クハ200(Tc') 搭載機器 CHOP MG,CP CHOP MG,CP
※この「京阪神緩行線」の解説は、「国鉄201系電車」の解説の一部です。
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京阪神緩行線
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51系の増備として投入されたこともあり、従来からのぶどう色2号一色で、クハ76形の外観から「茶坊主」とも呼ばれた[要出典]。また、後述の代用「急電」運用に投入された一部のモハ70形は、誤乗防止のため関西急電色となった。
※この「京阪神緩行線」の解説は、「国鉄70系電車」の解説の一部です。
「京阪神緩行線」を含む「国鉄70系電車」の記事については、「国鉄70系電車」の概要を参照ください。
京阪神緩行線
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1951年2-3月にモハ70形が17両配置された。塗装がぶどう色一色であることや51系と混結しての輸送力増強が目的であったことや[要出典]、ジャンパ連結器の構成が異なることから100番台に区分された。その後、1954年から1957年にかけてモハ70形とクハ76形(100番台には区分されていない)が増備され、51系のモハ51・54形、クハ68形、クロハ69形と編成を組み、以下の例のように、昼間時には基本編成のような4両編成を主体に、ラッシュ時には京都側に付属編成を連結して運用された。 ← 西明石 京都 → 基本編成 付属編成 クハ76/68モハ70モハ70クロハ69モハ51/54クハ76/68京阪神緩行線運用では代用「急電」(のちの快速)でも運用された。1950年11月から急電に投入された80系は翌年からサハ87形を組込んで5両編成となり、ラッシュ時20分毎、日中30分毎で運行していた。しかし予備編成が1編成のみであり、1952年夏期の日中に須磨まで延長運転した際に編成数が不足したため、運用に余裕のあったセミクロスシート化改造のクハ55形とモハ70形のぶどう色のままの5両編成で、客用ドア横に急行表示を、前面に急電羽根型ヘッドマークを装着して運行された。 ← 須磨 京都 → クハ55064モハ70117モハ70116モハ70115クハ55087この編成は塗色がぶどう色のままだったため誤乗車が相次ぎ、乗客からの苦情が多発したため[要出典]、翌1953年の夏期運用時に再度急電を須磨まで延長した際には、秋以降の急電増発も考慮して塗装をマルーンとクリームの関西急電色に変更し、中央客扉の締切と座席の仮設、ヘッドマークの装着をした状態で運行された。 ← 須磨 京都 → クハ68078モハ70116クハ68060モハ70115クハ68009夏期運用終了の9月1日には急電は終日20分ヘッドとなって代用編成は秋以降も運用され、1954年4月の新長田駅開業に伴う朝ラッシュ時の鷹取駅延長もあったために1年以上運用され、1954年12月の80系1編成の増備に伴い現状復帰された。 その後は、後述する中央東線から「山スカ」モハ71形とクハ76形を借り入れて運用した。また、1950年代後半にはモハ70形とクハ76形による代用快速で運用されたが、この際は短期間運用のため塗色変更は行われていない。1960年代前半には、湖東線の臨時列車に本系列のみの編成が投入された。 1964年以降の横須賀線への111・113系投入に伴い、20両弱が京阪神緩行線に転入して京阪神緩行線のロングシート化に一時的な歯止めをかけたが、その後阪和線快速の輸送力増強や新潟地区電化に転用され、1964年9月には京阪神緩行線用の本系列は10両となった。 その後はロングシート化の進展、1969年10月から103系が投入されたことに伴って最後まで残っていたモハ70形が1971年9月に転出し、本地区での運用が終了した。
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