井土ヶ谷事件
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井土ヶ谷事件(いどがやじけん)は、江戸時代末期(幕末)の1863年10月14日(文久3年9月2日)に現在の神奈川県横浜市南区井土ヶ谷下町3付近にあたる武蔵国久良岐郡井土ヶ谷村字下之前で起きた、攘夷派の浪士によるフランス人士官殺傷事件。
- ^ カミュの階級について文献により中尉とするものがあるが、墓碑には少尉と刻まれている。
- ^ “指定・登録文化財目録”. 横浜市教育委員会 (2020年5月29日). 2020年7月26日閲覧。
- 1 井土ヶ谷事件とは
- 2 井土ヶ谷事件の概要
井土ヶ谷事件
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「幕末の外国人襲撃・殺害事件」の記事における「井土ヶ谷事件」の解説
詳細は「井土ヶ谷事件」を参照 文久3年9月2日(1863年10月14日)、フランス陸軍横浜警備隊員として来日していた陸軍少尉アンリ・カミュが、同僚のフランス陸軍士官とともに、馬で武蔵国久良岐郡井戸谷村十二天社(現神奈川県横浜市南区井戸谷下町井戸谷橋付近)を通行中に浪士数名に襲撃され斬殺された。犯人達は捕縛されず、彼等の素性は不明のままである。フランス公使ド・ベルクールが幕府に強く抗議、外国奉行竹本甲斐守を特使として謝罪のためにフランスに派遣するよう迫った。対策に苦慮した幕府が横浜鎖港談判使節団という名目でフランスに使節を派遣した。このとき、幕府はカミュの遺族に35000ドル支払っている。 イギリス士官アーネスト・サトウは、1866年に著した『英国策論』においてこの事件に触れ、「1863年9月の切害は、現在は大君政府に知れながら、彼らは主人の威力を以て刑罰を逃れた。故にこの条約(日英修好通商条約)は、国家を制御することができない者と結んだということだ」と書いた。
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