五式戦闘機
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川崎 キ100 五式戦闘機
注釈
- ^ 当時の陸軍では通常、空中勤務者と呼ばれていた。本項では操縦士に統一する。
- ^ ただし歴史群像編集部 (2010) によれば、歴史群像編集部では使用部隊の多さなどから本機は制式機に準ずると判断した、としている。同じく歴史群像編集部 (2011)では制式指示がなかったと明言している(p.77)。そのためこの文献での五式戦闘機の項目名は「試作(編注:冒頭部分は分類で、他には制式、計画、などが見られる)川崎 キ100 近距離戦闘機(軽戦闘機)」であり、あくまでキ100であり、五式戦闘機ではない。また野原 (2007) では制式化されたか否かには言及せず「採用」と表現されている。ただし、村上 (1985) のように、「制式採用された」と明記する文献もやはり存在する。岐阜かかみがはら航空宇宙博物館にて展示されている土井技師直筆と見られる1943年(昭和13年)から1945年(昭和20年)の工期表(1945年(昭和20年)6月作成)には、キ100欄に「正式名称、五式戦闘機」の記載がある。
- ^ なお、ハ140の生産は10月-12月には24、21、45台と一時的に復調しているが、年が明けると8台、7台、2台、0台という生産数であった[17]。
- ^ 実際にハ140を搭載し完成したのは99機とするのが定説である。
- ^ 渡辺 (1999) によれば9月に川崎の岐阜工場で行われた、審査部総務部長於田秋光大佐、川崎側、航空本部側らの会議で、二型の生産停止と空冷化が決まった。先述の名取大尉もハ140に期待が持てないことを述べたという [31]。
- ^ 歴史群像編集部 (2011) によれば、キ99は1943年7月5日に航密8476号で三菱に試作指示されたハ211搭載の単発単座近距離戦闘機。キ101は1943年夏、中島に対し海軍の夜間戦闘機「月光」(これも中島製である)を参考に研究指示同じくハ211搭載の双発夜間戦闘機[34]。
- ^ ハ112-IIは14気筒エンジンであるため左右7本ずつになりそうなものであるが、一番下の排気管は2気筒分を排気するものである[40]。
- ^ 厳密には機体後部のバラストの撤去も行われている。ラジエータの撤去と整形はほぼ機体中央部と言える。松崎 & 鴨下 (2004) p.87の図がわかりやすい。
- ^ 設計主任の土井は2月1日を、審査主任兼初飛行操縦者の坂井少佐は2月11日と主張している[46]。
- ^ 村上 (1985) は、これほどまでに短期間の内に設計・試作が完了したのは、正式な命令より以前から十分な検討が行われていたが故なのではないかとしている。
- ^ 強度の過給を行うと吸気温度が上昇しノッキング・異常燃焼の原因となるためこのような装置で冷却するか高オクタン燃料の利用が必要となる。
- ^ 「丸」編集部 図解・軍用機シリーズ2 飛燕・五式戦 / 九九双軽 p.19 によれば、「日本が産んだエンジンとして最も信頼性が高い」と紹介されている。
- ^ 一〇〇式司偵では、外地であるパレンバンの部隊において1944年(昭和19年)8月から10月頃になっても三菱スタッフの整備援助を要したという[77]。
- ^ なお、渡辺(2006)は一型丁と同等の速度と記している[49]。
- ^ ただし、この時期の四式戦闘機は搭載する「誉」エンジンが技術的な問題を充分クリアしておらず、本来の離昇出力2,000馬力を完全に発揮したとは言いがたい状況であったとされる。詳細や出典等は誉 (エンジン)を参照。
出典
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- ^ INDIVIDUAL HISTORY KAWASAKI Ki-100-1b BAPC.83/8476M MUSEUM ACCESSION NUMBER 85/AF/68
五式戦闘機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 14:31 UTC 版)
使用不能となった日の丸のP-51にかわり、恭平が調達してきた機体。日本製だが登場が太平洋戦争末期のため、ほとんど活躍していない。しかしその性能は軍上層部の思惑を超えて高レベルであり、日本へ来襲したムスタングやヘルキャットと互角に戦った(トムの父も戦闘機パイロットだったが、太平洋上空で五式戦と戦い手こずったあげく撃墜されたと語っている)。ほぼオリジナルのままだが、未使用状態のままシカゴのコレクターに引き取られ、保存状態もきわめて良好だったため、劣化などは全くみられなかった。また、最初から良質の燃料やオイルを使用しているためエイジングによって性能が底上げされており、その底力は未知数。日の丸自身、飛んでいるとどんどん(機体と)同化しているのが分かるとしながらも、未知の部分が多すぎると戸惑っている。
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