久保登喜夫
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久保 登喜夫(くぼ ときお、1921年10月2日[1] - 1945年4月28日)は、北海道小樽市出身の元スキージャンプ、ノルディック複合選手。大日本帝国海軍軍人。神風特別攻撃隊隊員として戦死した悲劇のジャンプ選手として有名である。
- ^ a b c 夫馬信一『幻の東京五輪・万博1940』(原書房、2016年)p.222
- ^ a b 「久保登喜夫 戦死 二十五才」という資料が残っている(HBCの特番より)。
- ^ a b c d e 沖縄の海に散った、幻の五輪候補北海道新聞、1998年2月3日夕刊
- ^ 連載7 記録に見る日本のスキー競技史 1923年、日本のスキー競技ははじまった 全日本スキー連盟HP
- ^ 1938年7月15日に宇垣一成外務大臣からの通達により閣議で決定された。ちなみに同年9月に開催予定だった夏季オリンピックの東京オリンピックも、同時に返上している。
- ^ a b c d e 戦後70年へ、北海道と戦争<第1章・開戦前夜>幻の札幌五輪<4>特攻直前 母思う手紙北海道新聞、2014年9月18日記事
- ^ 防衛省防衛研究所に残る戦闘概要には、同日の攻撃に関し「一八三〇(午後6時30分)頃 大半艦船ニ突入成功セルモノト認メラル」との記述がある。但し、特攻の性質上、途中で撃墜された可能性もあり、最期の詳細は不明である。また第3草薙隊では隊員80人のうち63人が戦死(戦死率78.75%)した。
- ^ 旧制小樽中学時代の同級生であり、その後立教大学硬式野球部に所属した川崎信一選手のこと。久保と同じく学徒出陣し神風特攻隊にも所属していたが、出撃命令が下りずに運良く復員した。戦後すぐに再開された1946年の春季リーグ戦では主将を務め、打率.391の好成績で首位打者に輝いた〈首位打者・最優秀防御率(立教大学野球部公式サイト)東京六大学野球リーグ戦首位打者(東京六大学野球連盟公式サイト)〉。晩年は千葉県柏市に住み、2007年に85歳で死去。
- 1 久保登喜夫とは
- 2 久保登喜夫の概要
- 3 関連項目
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