不服従運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:20 UTC 版)
「マハトマ・ガンディー」の記事における「不服従運動」の解説
第一次世界大戦後は、独立運動をするインド国民会議に加わり、不服従運動で世界的に知られるようになる。またイギリス製品の綿製品を着用せず、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを呼びかけるなど、不買運動を行った。よく知られている「インドの糸車を廻すガンディー」の写真には、こうした背景がある。 これら一連の運動のために、ガンディーは度々投獄された(計6回)。例えば1922年3月18日には、2年間の不服従運動のために、6年間の懲役刑の判決を受けている。第一次の不服従運動は、1922年にインド民衆が警察署を襲撃して20人ほどの警官を焼死させる事件が起きて中止されたが、1930年より不服従運動は再開された。とりわけ、「塩の行進」と称されるイギリスの塩税に抗議した運動は有名である。 ガンディーが不服従運動のための協力者の要員を募集する際のその条件は、やはり多くの人と信頼を構築でき、その協力を得られるような人格者であったが、この「非暴力運動」に参加すること自体でも、暴力で運動を止めさせようとする兵士に対して反撃を行わず、逃げもしないという非常な勇気が必要とされ、真の強さと忍耐が求められた。 非暴力の思想はインドと距離的に近い西アジアなどでも見られ、アジアで生まれたヒンドゥー教、イスラーム教、仏教、キリスト教で、それは当てはまるとガンディーは考えた。アジアの思想に共通するという考えから、ガンディーは「自分はヒンドゥー教徒であり、イスラム教徒でもあり、また、原始キリスト教という意味ではキリスト教に賛同する」として、宗教グループ間や世界の人々に対話を呼びかけた。
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