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下田歌子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/05/04 12:56 UTC 版)

下田 歌子

下田 歌子(しもだ うたこ、出生名:平尾 鉐(ひらお・せき)、安政元年8月9日1854年9月30日) - 昭和11年(1936年10月8日)は、明治から大正にかけて活躍した教育家歌人。女子教育の先覚者。岐阜県恵那郡岩村町(現在の恵那市)出身。


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  1. ^ 正確には、満16歳と8ケ月の4月に上京した。
  2. ^ 宮中に上がって間もないころ鉐は、春の月を歌に詠んだ。昭憲皇太后から「あなたは歌の才能がある。これからは歌子と名乗りなさい。」と言われ、以来鉐は歌子と自らを名乗るようになった。
  3. ^ 中村2006、13-14頁。大関1994、3頁。宮内1973、285頁。佐々木は明治天皇と直接折衝し、この欧米教育視察が下田の仕事に対する箔付けを含むことを説明している。宮内省や華族女学校でも反対意見があり、視察の前下田は華族女学校学監を辞し教授在任となり、さらに表向きは自ら願い出る形で渡航が許可された。明治天皇の下命は出発直前の明治28年8月24日となった。
  4. ^ 森1995、6-9頁。中村1989、208-211頁。中村2006、11-22頁。エリザベス・アンナ・ゴルドン(Elizabeth Anna Gordon)(1851-1925)はイギリスの比較宗教学者。ランカシャーに生まれ、スコットランドの名門貴族ジョン・E・ゴルドンと結婚。2男3女を育てるかたわらヴィクトリア女王の女官を務めた。1886年、35才でオックスフォード大学を卒業。大学ではF・M・ミュラーに師事。1891年に訪れた日本の自然と文化に魅了され、帰国後日本人留学生を援助。英米加の新聞に呼びかけ洋書9万5千冊を蒐集、同門の高楠順次郎を介しそのうち2万5千冊を「日英文庫」として日比谷図書館に寄贈した(戦災により焼失)。1907年の再来日を機に日本を拠点に比較宗教学の研究にあたる。1916年急遽帰国の際、研究資料や収集品を早稲田大学に寄贈。「ゴルドン文庫」として保管されている。1925年京都で病没。
  5. ^ 大関1994、7-8頁。13、4才と思われる女王の孫娘(女王の第7子アーサーの長女マーガレットか。1894年当時12才)は家庭教師を伴って女子学校に通い、普通の生徒と変わらない扱いを受けていた。女王の末子ベアトリスは慈善会に質素な服装で現れ店主と言葉を交わし買物をしていた。次女アリスジフテリアに罹った末娘を自ら看護した結果若くして亡くなっている。
  6. ^ 城田1992、76-81頁。下田は1894年(明治27年)7月6日付の谷干城への書簡で、日清は友好的な関係を保持すべきであるとの見解を表すとともに、視察期間の1年延長の希望とイギリスでの今後の方針について説明している。
  7. ^ 大関1994、10-12頁。ドロシア・ビール(Dorothea Beale)(1831-1906)はイギリスの教育者。1858年からCLCの第2代学長を務め、1893年にはオックスフォード大学セント・ヒルダズ・カレッジ(St Hilda's College)を創設した。1898年に津田うめが学んだのがこのセント・ヒルダズである。CLCは1895年当時本科生徒数600名、講師70名を有するイギリス屈指の女子高等教育機関で、その学則や運営、試験制度、施設、経営方法は下田が1899年に実践女学校を設立する際影響を与えたとされる。
  8. ^ 大関1994、13-15頁。
  9. ^ 白井1995、96-100頁。CTCの初代校長エリザベス・フィリップス・ヒュースはビール校長のもとCLCの教師を務め、その後ニューナム・カレッジに学んだ女子師範教育の先駆者で、CTCはこれら2校をモデルに創られていた。
  10. ^ 中村2006、18頁。下田の視察期間は当初の1年と、半年の延長申請が2回分認められた。渡航先はイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、ベルギーの6カ国に及び帰国の際英領カナダとアメリカにもまわっている。
  11. ^ 中村2006、17-18頁。前年5月には青木周蔵駐英公使との調整がうまくいかず女王謁見の機会を逃した。女官の正装である袿袴での謁見にこだわった下田に対し、日英通商航海条約の調印間際だった青木が欧化主義の観点からこれを排したと中村悦子は推察している。日英通商航海条約は1894年(明治27年)7月16日に調印され、その翌年下田は袿袴姿での謁見を実現した。
  12. ^ 大関1994、16-18頁。
  13. ^ 安在2003、55-102頁。1895年(明治28年)10月から11月にかけ下田は佐々木高行の下を度々訪れ宮内大臣土方久元、侍従長徳大寺実則から帰国後何の沙汰もないと訴えたが、逆に徳大寺は佐々木を呼び出し下田が耶蘇教に変心したか問いただした。これは下田の欧米視察時に在英公使館に勤務していた宮内大臣秘書官長崎省吾が否定し一応決着する。変心の噂の出所は宮内省御用掛兼皇后附女官山川操子と佐々木は推察。翌年1月から2月には修学年齢に達した常宮の教育を巡って皇后大夫香川敬三、娘の宮内省御用掛兼皇后附女官香川志保子、山川操子と対立が起こる。2月2日下田は山川操子の姉で女子高等師範学校生徒取締兼舎監の山川二葉が、妹と香川志保子に代わって常宮の教育を勤めるため女高師に辞表を提出したと佐々木に報告した。


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