三毛別羆事件
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三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)は、1915年(大正4年)12月9日から12月14日にかけて、北海道苫前郡苫前村三毛別(現:苫前町三渓)六線沢で発生した熊害事件。エゾヒグマが開拓民の集落を二度にわたって襲撃し、死者7人、負傷者3人を出した。
注釈
出典
- ^ 盛武, 木村. “「マユ。マユはどこだ!」8人の死者を出したヒグマによる惨劇「三毛別事件」の幕明け”. 文春オンライン. 2019年10月20日閲覧。 本記事は、木村2015の文献から、文章・図版とも同一のものを転載したもの。増田俊也による解説も、木村2015と同一のもの。
- ^ “The Sankebetsu brown bear incident of 1915 was the worst bear attack in Japanese history” (英語). The Vintage News (2017年8月3日). 2020年11月20日閲覧。
- ^ 山田 『北海道の地名』 北海道新聞社 p.132
- ^ 山田 『東北・アイヌ語地名の研究』 草風館 p.84
- ^ 山田 『北海道の地名』 北海道新聞社 p.479
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- ^ 山田 『北海道の地名』 北海道新聞社 p.315
- ^ 山田 『東北・アイヌ語地名の研究』 草風館 p.89-91
- ^ 木村2015、pp.12-13
- ^ 木村2015、pp.13-14
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- ^ 木村2015、p.20
- ^ a b 木村 『ヒグマ そこが知りたい』 共同文化社 p.253
- ^ a b c 木 『ヒグマ そこが知りたい』 共同文化社 p.254
- ^ a b c 木村 『ヒグマ そこが知りたい』 共同文化社 p.255
- ^ 盛武, 木村. “(2ページ目)「マユ。マユはどこだ!」8人の死者を出したヒグマによる惨劇「三毛別事件」通夜の直後にも再び絶叫が…”. 文春オンライン. 2024年3月28日閲覧。
- ^ 木村『慟哭の谷』、pp.25-27
- ^ 盛武, 木村. “(4ページ目)「マユ。マユはどこだ!」8人の死者を出したヒグマによる惨劇「三毛別事件」通夜の直後にも再び絶叫が…”. 文春オンライン. 2024年3月28日閲覧。
- ^ a b 日本クマ事件簿取材班. “「腹破らんでくれ!」胎児を含む7人が殺害…国内最多の死者数を出した「三毛別ヒグマ事件」の壮絶”. 文春オンライン. 2023年12月8日閲覧。
- ^ a b 木村『ヒグマ そこが知りたい』 共同文化社 p.256
- ^ a b c d e f 木村 『ヒグマ そこが知りたい』 共同文化社 p.258
- ^ 盛武, 木村. “(4ページ目)「腹破らんでくれ! 喉食って殺して!」臨月の妻を居間に引きずり出し…巨大ヒグマが見せつけた“執拗な残忍さ””. 文春オンライン. 2024年3月28日閲覧。
- ^ a b 木村『慟哭の谷』、pp.42-43
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- ^ a b c d e 木村 『ヒグマ そこが知りたい』 共同文化社 p.259
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- ^ 木村『獣害史最大の惨劇苫前羆事件』
- ^ 江原『熊嵐それから』、pp.20-21
- ^ a b c 木村『ヒグマ そこが知りたい』 共同文化社 p.260
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- ^ 木村2015、pp.64-65
- ^ a b 木村『ヒグマ そこが知りたい』 共同文化社 p.261
- ^ 木村『ヒグマ そこが知りたい』 共同文化社 p.262
- ^ 木村『慟哭の谷』、pp.95
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- ^ 木村『ヒグマ そこが知りたい』 共同文化社、pp.250
- ^ 木村『慟哭の谷』、pp.120-124
- ^ “道内の被害史”. 北海道新聞. 2015年9月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年10月17日閲覧。
- ^ 木村『慟哭の谷』、pp.118-119
- ^ a b c 木村『慟哭の谷』、pp.3-4
- ^ 木村『ヒグマそこが知りたい』、pp.262-263
- ^ “道内の被害史 関連記事”. 北海道新聞. 2015年4月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年10月17日閲覧。
- ^ 木村『慟哭の谷』、p.38
- ^ 木村『慟哭の谷』、p.54
- ^ 木村『慟哭の谷』、p.101、箇条書き1
- ^ 木村『慟哭の谷』、p.101、箇条書き5
- ^ 木村『慟哭の谷』、p.101、箇条書き4
- ^ 木村『慟哭の谷』、p.101、箇条書き2,3
- ^ 木村『慟哭の谷』、p.99
- ^ 木村『慟哭の谷』、p.102、箇条書き9
- ^ 木村『慟哭の谷』、p.102
- ^ ヒグマ事件100年で法要 7人犠牲、北海道苫前町. 共同通信. 15 October 2015. 2017年3月9日閲覧。(YouTubeにおける動画ニュース)
- ^ 矢口高雄「羆風 あとがき」『野性伝説 羆風/飴色角と三本指』山と渓谷社〈ヤマケイ文庫〉、2018年6月15日、993頁。ISBN 978-4-635-04848-4。
出典2
- 1 三毛別羆事件とは
- 2 三毛別羆事件の概要
- 3 事件の経緯
- 4 事件の記録
- 5 関連作品
- 6 脚注
三毛別羆事件
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兵吉が57歳だった1915年(大正4年)12月9日、10日に北海道苫前郡苫前村三毛別六線沢(現・苫前町三渓)で、開拓民7名がヒグマに殺される三毛別羆事件が発生した。兵吉はこの頃、借金のために銃を質にいれており、たまたま猟を思いたち三毛別付近に来たところ事件を耳にした。三渓 (旧三毛別)の住民の話では10日深夜、11日、12日のどれかに熊討伐隊に参加したというが、詳細は不明である。13日午後6時頃、兵吉は鈴木という隊員とヒグマが無人の家に侵入しているのを目撃したが、射殺するには至らなかった。 14日、この日は大規模な山がりが行われた。兵吉は大勢の隊員とは別の道から山に入ると、200メートルほど手前から頂上付近のミズナラの大木で体を休めているヒグマを発見、20メートルほど前進するとハルニレの木に身を寄せ銃を発砲、ヒグマの心臓近くに命中した。しかし、ヒグマは立ち上がり兵吉をにらんだため2発目を発射した。その弾は頭を貫通したという。午前10時、7人を殺害したヒグマは兵吉によって命を絶たれた。兵吉は褒美として北海道庁から無鑑札で軍服と帽子を送られたが、それを着て猟に行くことはなく、普段は手拭いで頬被りをして藁沓を履き、刺し子の上から毛布のような物を体に巻き、肩から鉄砲を背負って猟に出かけていたという。事件での兵吉の活躍は吉村昭の小説「羆嵐」で山岡銀四郎として大きくとりあげられた。
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