三業惑乱とは? わかりやすく解説

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さんごうわくらん 【三業惑乱】


三業惑乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/28 20:38 UTC 版)

三業惑乱(さんごうわくらん)は、江戸時代中期に浄土真宗本願寺派教義をめぐって発生した大規模な紛争宗派内で解決せず、最終的には江戸幕府寺社奉行が介入するまでに発展し、本願寺派門主が寺社奉行の裁定を追認する形で決着した。西本願寺教団史上最大の異安心(異端)事件と評価されている[1]




「三業惑乱」の続きの解説一覧

三業惑乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/15 08:28 UTC 版)

功存」の記事における「三業惑乱」の解説

しかし功存死後第7代能化就任した智洞が『願生帰命弁』を三業帰命説の根拠したために三業惑乱が惹起し最終的に江戸幕府寺社奉行裁定により、同書もまた異安心認定されるという皮肉な結果招いた

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三業惑乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/15 09:38 UTC 版)

智洞」の記事における「三業惑乱」の解説

1796年寛政8年)、西本願寺第7代能化職に就任し前任功存著した『願生帰命弁』を元に三業帰命説(三業安心説、新義)を受け継ぎ広める。 しかしこの説に不審抱いた安芸大瀛河内道隠など在野学僧古義派正義派)が、智洞を代表とする学林新義派三業安心派)を批判した。これは単なる教義論争止まらず各地門徒巻き込み流血の大紛争発展した(三業惑乱)。門主はじめとする宗門事態収拾できず、江戸幕府京都所司代寺社奉行介入するところとなり、1803年享和3年4月京都所司代の命により、二条城智洞大瀛道隠討論し同年5月京都所司代智洞関係者40人を入牢させた。翌1804年文化元年1月には江戸移送され寺社奉行取り調べ受けたが、智洞はこのとき罪人として鶤鶏籠に入れられ江戸へ護送されている。5月論敵大瀛獄死する智洞1805年文化2年4月26日回心状を提出するが、同年10月22日八丈島遠流の刑が決まっていた彼は、行刑前に江戸獄中にて70歳死去した1806年文化3年)、寺社奉行脇坂安董三業帰命説を異安心異端)と審判し西本願寺門主本如もこれを追認して事態収拾した。西本願寺教学トップ門主上の権力持っていた能化職を1807年文化4年)に廃止し1824年文政7年)に任期1年勧学職を置いた

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三業惑乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/09 15:23 UTC 版)

本如」の記事における「三業惑乱」の解説

西本願寺では、江戸中期法如宗主時代から宗門の安心(あんじん)をめぐる教義対立燻っていたが、本如時代には地方の不満が頂点達し本山まで直談判赴く門徒衆のために京都市中も不穏な状況にあった。この時点学林派(三業派・新義派)の「三業帰命説」は安芸大瀛らによって論破されていたが、越前越中中心とした三業支持影響強く一大権力築いていた能化自体誤り認めことはなかった。 本如22歳若さ宗主継職したこともあり、7代能化職の智洞寛政9年就任)を頂点とする学林に対して無力に近かった本如自身混乱回避のため様々な手段尽くそうとするが、学林暴走止めることはできず、やむを得ず江戸幕府介入を頼むこととなった享和3年1803年)、幕府京都所司代二条城にて大瀛道隠智洞法論を行わせて、文化元年1804年)には江戸に両派を召喚し寺社奉行所討論させている。この時裁定当たった寺社奉行龍野藩脇坂安董は、この一件の手腕が認められ、後に老中職にまでなった。 幕府一連の裁定終え文化3年1806年)、本如筆の「御裁断御書」において三業帰命誤り明示し、これを宗意安心の基準として、両派関係者への処罰下した本願寺には100日間閉門下された。 この一件により宗主上の権力持った能化職は廃止され、後に任期1年更新勧学職を置いたまた、予定されていた御影堂修復もこの問題により着工遅れた

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三業惑乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 21:56 UTC 版)

大瀛」の記事における「三業惑乱」の解説

新義派智洞西本願寺能化となると河内道隠とともに古義派代表してこれを批判し智洞講義対す反論として16項目からなる十六問尋』を作成して学林側の新義派回答求めた。この教義論争各地門信徒巻き込んで流血事態となり、いわゆる三業惑乱の大紛争発展する宗門内部では事態収拾できず、江戸幕府介入を招く。そうした状況の中、大瀛1803年享和3年)には二条城にて、また翌1804年享和4年)には江戸寺社奉行所にて道隠とともに対論し、智洞論破した。しかし、同年5月築地成勝寺にて46歳没した大瀛死後1806年文化3年)に寺社奉行脇坂安董は「三業安心説」を異端異安心)であるとする審判下し同年本願寺門主本如も「御裁断御書」でそれを追認したことで、大瀛らの主張認められることとなった

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