三条制札事件
三条制札事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 10:20 UTC 版)
慶応2年1月26日の夜、長州藩を朝敵とした三条制札場の高札が取り外され、石垣が崩されるという事件が発生した。さらに、将軍・徳川家茂死去の8日後の8月28日、またも高札が外され、三条小橋の下に捨てられた。そしてさらに9月1日にも高札が放棄され、翌日には新たな高札が掲げられたが3日には制札場の石垣が崩され、4日には石垣が崩された上高札が盗まれるという事件が発生した。この時は目撃者がおり、帯刀人五、六人の仕業だったようである。さらに5日にも同様の事件があり、今度は4人の犯人が目撃されている。町奉行所は懸命の捜索を行い、ついに犯人が土佐藩士であるという風聞にたどり着いた。町奉行所は武士に手を出すことができないため、これが会津藩に通報された。そこで会津藩は新選組に制札場の警備を命じ、左之助はここで大活躍をおさめることになる。 左之助は12日夜、27人の隊士達とともに制札場に出動した。大石鍬次郎、茨木司らを三条大橋の東詰の民家に、新井忠雄、中西登、伊藤浪之助らを西詰の高瀬川近くの酒屋に配し、自身は西詰南側にある先斗町の町会所に待機し、浅野薫と橋本皆助を物乞いに変装させ制札場近くに置いた。 午前0時頃、川原を北上してきた武士が現れた。土佐藩士の藤崎吉五郎、松島和助、宮川助五郎、沢田屯兵衛、安藤鎌治、奥山禎六、早川安太郎、中山謙太郎の八人である。彼らは制札所に歩み寄って、柵に登ろうと足をかけた。そのとき橋本皆助は静かにその場を離れ酒屋の新井忠雄らのもとに合図を送り、次いで左之助の待つ三条会所に向かった。しかし既に気配を察知していた左之助たちは彼らの様子をうかがっており、2枚の高札が投棄されたのを合図に抜刀して突き進んだ。左之助は彼らの首領を藤崎吉五郎と判断し、伊木八郎とともに左右から攻め立て、軽傷を負いながらも藤崎を切り倒したが絶命には至らなかった。 闘いを終えた左之助たちが、捕縛した宮川助五郎たちを連れて屯所に戻ったのは13日の夜が明けた頃だった。左之助はこの事件の報奨金で金20両を与えられている。 この報奨金が記されている報奨金分配リストには、左之助は七番組頭となっている。左之助は前年の取調日記によると殿である九番隊組頭だったので、その間に組織の再編が行われたことが分かる。 禁門の変後、新選組は長州征伐を念頭に置いて副長助勤制度から小隊長制に切り替えており、その後長州征伐の可能性がなくなってからも小隊長制を維持し事態の推移を見守っていた。しかし慶応2年の6月に長州再征伐が発生した、幕府の敗北が色濃くなる中7月20日には将軍徳川家茂が病死。幕府は実質的な敗北を認めざるを得ず、21日には休戦の勅許を得ていた。つまり新選組はこの時点で長州征伐に必要だった小荷駄方、殿というポジションは必要なくなった。そこで組織の再編が行われ、左之助は七番組長として三条制札事件を迎えたのであった。 ちなみに、制札場事件の翌日には土佐藩は新選組との和解のために祇園の料亭に近藤らを招いていたが、そこに左之助がいたという記録はない。
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