三原ポカリ事件
三原ポカリ事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:47 UTC 版)
巨人に復帰すると、田中資昭に替わって正遊撃手となり前半戦は上位打線を任される。しかし、1年間のブランクもあって打撃の調子が上がらず、後半は下位打線に回り田中と併用されるなどして.219の低打率に終わった。翌1949年はシーズンを通して千葉茂と1・2番コンビを組んで、千葉121得点(リーグ2位)、白石94得点(リーグ8位)と2人で215得点を挙げ、巨人の戦後初優勝に貢献した。 この年、南海の大黒柱・別所引き抜き事件に端を発する「三原ポカリ事件」が起きるが、この事件のきっかけを白石が作っている。別所引き抜きの遺恨試合となった4月14日の巨人対南海3回戦の9回表4-0と巨人リードの場面で、南海が飯田徳治の本塁打などで1点差に迫る。なお無死一塁で代打・岡村俊昭の当たりは一塁ゴロ、併殺を狙った一塁手・川上哲治の送球を受けた白石が二塁を封殺して一塁へ送球しようとしたところ、一塁走者・筒井敬三に組み付くように滑り込まれ、白石は送球できずに併殺を崩された。「なにしとるんなら!」温厚な白石には珍しく広島弁で怒鳴ったのをきっかけに白石と筒井がやり合い、ベンチから飛び出した監督の三原脩が筒井の頭をポカリと殴った。この事件は大きな問題となって三原はシーズンの残り試合を全て出場停止とする処分が出たが、のち出場停止期間は100日に短縮されている。
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