子嬰
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子嬰(しえい)は、中国秦の最後の君主(在位:紀元前207年)。史料では、秦王子嬰または秦三世とも呼称される。
- ^ 以下、特に注釈がない部分は、『史記』秦始皇本紀・六国年表第三・秦楚之際月表第四による。
- ^ 年号は『史記』六国年表第三・秦楚之際月表第四による。西暦でも表しているが、この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。まだ、秦代では正月を端月とする。
- ^ a b 『史記』蒙恬列伝
- ^ 『趙正書』
- ^ 『趙正書』
- ^ 工藤卓司『北京大学蔵西漢竹書『趙正書』における「秦」叙述』195頁
- ^ 李斯の刑死は、『史記』李斯列伝では、二世二年(紀元前208年)7月の事件とするが、『史記』秦楚之際月表第四では同年8月に李由は戦死しており、『史記』李斯列伝ではその後の事件とする。また、『史記』六国年表第三では、二世二年(紀元前208年)の事件とするが、『史記』始皇本紀では、二世三年(紀元前207年)の早くても11月の項羽による鉅鹿救援後の冬(10~12月)に李斯が刑死されたとする。
- ^ 宦者は、「宦官」と翻訳されるが、鶴間和幸は、「皇帝の側近として仕える官吏は、一般の官吏とは一線が引かれていた。宦者と呼ばれて宦籍に登録されていたのである。皇帝に宦(つか)えることに、本来は去勢された男子の意味はない。後漢以降、宦者にはいわゆる去勢された男子がもっぱらあてられたが、始皇帝の時代は一般の男子も皇帝の側近であれば宦者と言われた。」としている。鶴間和幸『人間・始皇帝』203頁
- ^ 『史記』李斯列伝
- ^ 『漢紀』高祖皇帝紀第一
- ^ a b c d 『史記』高祖本紀
- ^ 『史記』始皇本紀に附された班固が後漢の明帝に奉じた文に記載。
- ^ 李開元 (2006年7月16日). “秦王子嬰為始皇弟成蟜子説——補《史記》秦王嬰列伝” (中国語). 象牙塔网络. 2020年7月25日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 『史記』「李斯列伝」集解徐広の説では、「一本曰『召始皇弟子嬰,授之璽』」と記述され、始皇帝の弟の子の(嬴)嬰とする説がある。就実大学人文科学部元教授の李開元はこの説を支持し、嬴嬰を始皇帝の弟である嬴成蟜の子であると言う説を発表している李開元 (2006年7月16日). “秦王子嬰為始皇弟成蟜子説——補《史記》秦王嬰列伝” (中国語). 象牙塔网络. 2020年7月25日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 吉田賢抗、『新釈漢文大系「史記一(本紀)」』387頁、水沢利忠、『新釈漢文大系「史記九(列伝二)」』514頁
- ^ 吉田賢抗、『新釈漢文大系「史記一(本紀)」』387頁
- ^ 鶴間和幸『人間・始皇帝』212・213頁
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