いちまだ‐ひさと【一万田尚登】
一萬田 尚登 (いちまだ ひさと)
氏 名: 就 任: 退 任: 出身県: | 一萬田 尚登 (いちまだ ひさと) 昭和21. 6. 1 昭和29.12.10 大分県 |
一萬田尚登が18代目の日本銀行総裁に就任したのは、第二次世界大戦におけるわが国の敗戦の翌年(昭和21年)6月のことです。就任後直ちに連合国最高司令官マッカーサーに会見を申し入れ、「日本経済の実情を知って欲しい。ありのままのことを話し、私の意見を言うから、気に入らないことは聞き流しても結構だ」と率直に伝え、信頼関係を築いたとされます。 戦争によって国富の約4分の1を失ったわが国の復興資金を賄うべく、通貨安定と貯蓄推進のための国民運動を熱心に推進するとともに、かつてベルリン駐在時代に体験した第一次世界大戦敗戦国ドイツにおけるハイパーインフレーションの教訓を踏まえ、引き締め基調を堅持した金融政策を展開して経済の安定化に努めました。他方で、昭和24年にGHQ特別顧問として来日したジョセフ・ドッジが強度の緊縮政策を実施すると、そのデフレ的な影響を緩和すべく、市中銀行に対する貸出や買いオペレーションなどを駆使して財政収支の黒字分を民間に還元し、産業の復興を支えました。 昭和29年に総裁を辞任した後、鳩山、岸内閣の大蔵大臣を務め、この間に衆議院議員選挙に立候補し当選しました。昭和44年に引退し、昭和59年、90歳で亡くなっています。 (出典:広報誌『にちぎんクオータリー(2001年春季号)』) |
一万田尚登
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/09 14:24 UTC 版)
一萬田 尚登(いちまだ[1] ひさと、1893年(明治26年)8月12日 - 1984年(昭和59年)1月22日)は、日本の銀行家、政治家。位階は正三位、勲等は勲一等。姓は新字体で一万田とも表記される。
- ^ 日本銀行のサイト内・第18代総裁:一萬田尚登(いちまだひさと) : 日本銀行 Bank of Japan(2019年6月18日閲覧)より。ただし読みを「いちまた」としている資料等もある。
- ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、124頁。
- ^ 『官報』第11192号22頁 昭和39年4月7日号
- ^ 『官報』第17111号13-14頁 昭和59年2月21日号
- ^ 第5回国会 衆議院大蔵委員会にて塚田十一郎の質問に対して(1949年4月15日)[1](2019年6月18日閲覧)より。ただし読みを「いちまた」としている資料等もある。
- ^ 平林博「2013 年の年頭所感―日印協会110 周年の回顧と展望」(PDF)『月刊インド』第110巻第1号、公益財団法人日印協会、2013年1月、4-6頁、2014年4月4日閲覧。
- 1 一万田尚登とは
- 2 一万田尚登の概要
- 3 概要
- 4 人物
- 5 著書
一萬田尚登
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:10 UTC 版)
大分県議会議員時代の村山は、他の大分県議や市町村長らとともに、大分出身である時の大蔵大臣・一萬田尚登に、大分県への新産業都市指定を陳情した。ところが一萬田からは「国家全体を考慮して可否を判断すべき問題であり、陳情には左右されない」とたしなめられてしまった。村山はそんな一萬田に失望するどころか、逆に感銘を受けたという。
※この「一萬田尚登」の解説は、「村山富市」の解説の一部です。
「一萬田尚登」を含む「村山富市」の記事については、「村山富市」の概要を参照ください。
一万田尚登
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 16:24 UTC 版)
一万田尚登は日本銀行総裁(第18代)、大蔵大臣(第58・59・60・63代)、衆議院議員(5期)などを歴任。日本銀行総裁としての在任期間3115日間は歴代最長となる。一萬田自身の鋭い眼光の目つきと彫りの深い容貌もあいまって「法王」の異名を取り、戦後の金融界、経済界に重きを成した。国際基督教大学(ICU)の設立にあたり、尚登自身は仏教徒でクリスチャンではないにも関わらず募金運動の先頭に立ち、昭和24年(1949年)の半年間に1億5000万円を集めた。
※この「一万田尚登」の解説は、「一萬田氏」の解説の一部です。
「一万田尚登」を含む「一萬田氏」の記事については、「一萬田氏」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 一萬田尚登のページへのリンク