ヴァグラムの戦い
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ヴァグラムの戦い(ヴァグラムのたたかい, 英:Battle of Wagram, 仏:Bataille de Wagram, 1809年7月5日-7月6日[1])は、ナポレオン戦争における戦闘の1つ。ウィーン北東15キロメートルにあるドナウ川北岸の町ヴァグラムの周辺地域で、皇帝ナポレオン1世率いるフランス軍と、カール大公率いるオーストリア軍とが戦った。ワグラムの戦いとも表記される[2]。
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- ^ “戦いの回廊・ナポレオン執念の勝利 Galerie des Batailles in Ch teau de Versailles”. ライブドアニュース (2013年9月2日). 2020年7月4日閲覧。
- ^ “ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説”. コトバンク. 2018年1月21日閲覧。
- 1 ヴァグラムの戦いとは
- 2 ヴァグラムの戦いの概要
- 3 参考文献
ヴァグラムの戦い
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「1809年オーストリア戦役」の記事における「ヴァグラムの戦い」の解説
詳細は「ヴァグラムの戦い」を参照 アスペルン・エスリンクの戦いで敗北した後、ナポレオンは6週間以上計画を立案し、再度ドナウ川を渡ろうとするまでの間、万一の可能性に備えた。フランスはより多くの軍勢と大砲を連れてきて、次の渡河の成功を保証するためのより良い防衛手段を講じた。6月30日から7月初旬にかけてフランスはドナウ川をもう一度渡ろうとし、188,000名の軍がマルスフェルトを通って行軍した。フランスの進軍に対して前哨部隊のノルトマンとヨハン・フォン・クレーナウ(英語版)の師団はすぐに抵抗する事は制限されていた。オーストリアの主軍は8kmほど離れた場所に駐在しており、その中心はヴァグラムという村であった。渡河に成功した後、夜間にオーストリア軍が退却する事を防ぐ為、ナポレオンは全線で攻撃を命じた。第57戦列歩兵連隊と第10軽歩兵連隊はパルバスドルフ(英語版)という村に対して、猛烈な攻撃を仕掛け迅速にフランスの勝利を導こうとした。しかし結局オーストリア軍はフランスの攻勢を防ぎ、その場を動かなかった。英雄的なオーストリアのヴィンセント騎兵隊の間断ない攻撃により、第10連隊と第17連隊は撤退を余儀なくされ、フランスは何も得られず退却した。ウジェーヌとマクドナルの左翼に対する更なる攻撃では何も得られなかった。ベルドナットの軍による攻撃が後で行われたがこちらも失敗に終わり、右翼のダヴーは夜の暗さのために交戦を停止する事を決意した。こうして戦いの初日をフランスはマルスフェルトで終えたが、これらの努力にも関わらず、戦果はほとんど得られなかった。 7月6日カール大公は彼の弟のヨハン大公の迅速な行軍が要求される両翼包囲を計画した。この時ヨハンは戦場から東に数kmの地点にいた。ナポレオンの計画ではオーストリアの左翼への展開はダヴーの第3軍団に任せ、残りの軍がオーストリア軍を押さえつける事を想像していた。コロヴラートの第3軍団に支援されたクレーナウの第6軍団は2日目の午前4時から戦闘を開始しフランスの左翼を粉砕し、後にフランスはアスペルン・エスリンクの両方を放棄せざるを得なくなった。一方その間に部隊の展開が夜通しで行われた。ベルナドットはアダークラアという村の中心と要所から出ていくように自身の軍に一方的に命じたが、この動きはフランス全軍の陣形を大きく崩すものであった。ナポレオンは激怒し、この危機的な村を奪還するために2個師団と騎兵によって支援されていたマッセナの軍団を送った。最初の段階では激しい戦いが行われたが、マッセナはモリトールの予備兵力を投入した。この予備兵力は緩やかではあったがアダークラアを全てフランスの手に戻したものの、オーストリアの激しい砲撃と反撃によって再度失った。ダヴーの攻撃の為の時間を稼ぐためにナポレオンはシャンピオン配下の胸甲騎兵をオーストリアの戦線に送ったが、効果は得られなかった。中央と左翼を守るためにナポレオンは112の大砲によりオーストリアへ砲撃を開始し、オーストリアの戦列の穴を引き裂いた。ダヴーの兵士はオーストリアの左翼に進軍し、ナポレオンはマクドナルドの3つの小さな師団を戦列の穴に投入し、長方形の陣形でオーストリア軍中央に進軍させた。この陣形はオーストリアの大砲による攻撃を受けながらも、なんとか中央まで突破したが騎兵がなかったため、決定的な勝利を掴む事は出来なかった。しかしマッセナの部隊が左翼を救援し、右翼ではダブーが拠点を確保し、ヴァグラム方面へと向かいつつあった。カール大公はオーストリアの陣地が完全に破壊されるのは時間の問題だと判断し、午後1時頃退却を命じた。彼の弟のヨハン大公は午後4時に戦場に到着したが、戦況を変えるには既に遅すぎ、ボヘミアに徐々に退却していった。 フランスは2日間に行われた激しい戦闘により消耗しきっていたため、すぐにはオーストリア軍を追撃しなかった。フランス軍が回復した後、オーストリア軍を追撃し、7月中旬にはズノイモで追いついた。7月12日にこの地でカール大公は休戦条約にサインし、休戦協定が調印された。フランスとオーストリアの軍事的衝突は事実上終了したが、3ヶ月後にこの戦争の結果を公式にするための外交交渉が行われた。
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