ワトリング街道の戦いとは? わかりやすく解説

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ワトリング街道の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/27 02:26 UTC 版)

ワトリング街道の戦い(ワトリングかいどうのたたかい、英:Battle of Watling Street)は、60年または61年頃にグレートブリテン島で、イケニ族の女王ブーディカが率いるケルト人先住民のブリタンニア諸族同盟軍と、ガイウス・スエトニウス・パウリヌスが指揮するローマ軍団との間で起こった戦い


  1. ^ グラハム・ウェブスター『Boudica: the British Revolt Against Rome, AD 60』 1978年。ISBN 0415226066
  2. ^ カッシウス・ディオ『ローマ史』19-22
  3. ^ タキトゥス『アグリコラ』 14
  4. ^ タキトゥス『年代記14.31
  5. ^ ディオ『ローマ史』62.2
  6. ^ タキトゥス『年代記』14.29-39および『アグリコラ』14-16、ディオ『ローマ史』62.1-12
  7. ^ タキトゥス『年代記』 14.31-32
  8. ^ タキトゥス『年代記』 14.33
  9. ^ a b タキトゥス『年代記』14.34
  10. ^ a b c d e タキトゥス『年代記』14.37
  11. ^ a b タキトゥス『年代記』14.32
  12. ^ ディオ『ローマ史』62.8.2
  13. ^ タキトゥス『年代記』14.35
  14. ^ フロルス『ローマ建国以来の歴史』1.38、ガイウス・ユリウス・カエサル『ガリア戦記1.51
  15. ^ タキトゥス『年代記』14.36
  16. ^ 9-11
  17. ^ プルタルコス『プルタルコス英雄伝』「ガイウス・マリウス伝」25
  18. ^ ポリュビオス『歴史』6.23.8
  19. ^ ケンブリッジ ラテン語コース教科書 Unit2
  20. ^ ディオ『ローマ史』62.12.6
  21. ^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』「ネロ伝」 1839-40
  22. ^ タクトゥス『年代記』38-39
  23. ^ タキトゥス『同時代史』3.45
  24. ^ タキトゥス『アグリコラ』14-17、『年代記』14:29-39、ディオ『ローマ史』62:1-12
  25. ^ Kevin K. Carroll『The Date of Boudicca's Revolt』、Britannia、1979年10月
  26. ^ "The original Iron Lady rides again"、『デイリー・テレグラフ』2003年10月11日、2006年9月23日改訂、"Boudica's Last Battle" Archived 2007年9月27日, at the Wayback Machine.『Osprey Publishing』2006年9月23日改訂
  27. ^ "Is Boudicca buried in Birmingham?"BBC2006年5月25日、2006年9月9日改訂


「ワトリング街道の戦い」の続きの解説一覧

ワトリング街道の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 15:39 UTC 版)

ガイウス・スエトニウス・パウリヌス」の記事における「ワトリング街道の戦い」の解説

「ワトリング街道の戦い」も参照 61年スエトニウス第14軍団ゲミナ率いてブリタンニア抵抗勢力立て篭もるドルイド要塞があった北ウェールズモナ島現在のアングルシー島鎮圧当たっていた。彼の不在乗じた南西ブリタンニア諸族はイケニ族女王ブーディカ中心に蜂起反乱開始した植民地カムロドゥヌム(現在のコルチェスター)は破壊され、クィントゥス・ペティリウスの軍は打ち負かされた。スエトニウス急ぎモナ島和平同意取り付け反乱軍次の標的となるロンディニウム現在のロンドン)へ急行したスエトニウス当初こそ市街戦やむなしとの予測立てていたが、自軍兵卒少なさ加え、ペティリウス敗戦の報に触れるに至り大局的な視点からロンディニウム見放す決断下したブーディカ軍はロンディニウム次いでヴェルラミウム(現在のセント・オールバンズ)にも攻め入り、これらの都市破壊され尽くした。 これらの都市と市民犠牲引き換えに時を稼いだスエトニウスは、第20軍団ウァレリア・ウィクトリクス(en)からの派遣隊加え、さらに可能な限り予備役隊との合流果たし戦力補強着々と進めた。ただ、エクセター近郊展開していた第2軍団アウグスタ司令官ポエニウス・ポストゥムス(en)はこれに応じなかった。それでも何とか10,000人の軍団集めたスエトニウスは、歴史学者タキトゥスによれば100,000カッシウス・ディオによると230,000といわれるブーディカ大軍対峙した。ワトリング街道の戦いと呼ばれるこの戦闘では、戦場選びから始まったスエトニウス知略充分に発揮された。阻まれ狭窄な地に陣取り装備の差を見て取るピルム投擲ブリタンニア軍の勢い削ぎ訓練され兵卒軍団巧みに展開し、まさに圧勝得た戦後スエトニウスゲルマニアから戦力補強し反乱再発芽を摘むべく残党粛清する刑罰制定などを進めた。しかしこれではさすがに逆効果判断された。ローマ皇帝ネロ意向受けた新任行政長官ガイウス・ユリウス・アルピヌス・クラッシキアヌス(en)が着任しスエトニウス権限軍事行為のみに限定された。ネロ解放奴隷政策推進名目行われた調査で、スエトニウスは彼が数隻の船を失っていたことを口実指揮権剥奪され、その地位プブリウス・ペトロニウス・トゥルピリアヌス渡された。

※この「ワトリング街道の戦い」の解説は、「ガイウス・スエトニウス・パウリヌス」の解説の一部です。
「ワトリング街道の戦い」を含む「ガイウス・スエトニウス・パウリヌス」の記事については、「ガイウス・スエトニウス・パウリヌス」の概要を参照ください。

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