ワトリング街道の戦い
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ワトリング街道の戦い(ワトリングかいどうのたたかい、英:Battle of Watling Street)は、60年または61年頃にグレートブリテン島で、イケニ族の女王ブーディカが率いるケルト人先住民のブリタンニア諸族同盟軍と、ガイウス・スエトニウス・パウリヌスが指揮するローマ軍団との間で起こった戦い。
- ^ グラハム・ウェブスター『Boudica: the British Revolt Against Rome, AD 60』 1978年。ISBN 0415226066
- ^ カッシウス・ディオ『ローマ史』19-22
- ^ タキトゥス『アグリコラ』 14
- ^ タキトゥス『年代記』14.31
- ^ ディオ『ローマ史』62.2
- ^ タキトゥス『年代記』14.29-39および『アグリコラ』14-16、ディオ『ローマ史』62.1-12
- ^ タキトゥス『年代記』 14.31-32
- ^ タキトゥス『年代記』 14.33
- ^ a b タキトゥス『年代記』14.34
- ^ a b c d e タキトゥス『年代記』14.37
- ^ a b タキトゥス『年代記』14.32
- ^ ディオ『ローマ史』62.8.2
- ^ タキトゥス『年代記』14.35
- ^ フロルス『ローマ建国以来の歴史』1.38、ガイウス・ユリウス・カエサル『ガリア戦記』1.51
- ^ タキトゥス『年代記』14.36
- ^ 9-11
- ^ プルタルコス『プルタルコス英雄伝』「ガイウス・マリウス伝」25
- ^ ポリュビオス『歴史』6.23.8
- ^ ケンブリッジ ラテン語コース教科書 Unit2
- ^ ディオ『ローマ史』62.12.6
- ^ スエトニウス『ローマ皇帝伝』「ネロ伝」 18、 39-40
- ^ タクトゥス『年代記』38-39
- ^ タキトゥス『同時代史』3.45
- ^ タキトゥス『アグリコラ』14-17、『年代記』14:29-39、ディオ『ローマ史』62:1-12
- ^ Kevin K. Carroll『The Date of Boudicca's Revolt』、Britannia、1979年10月
- ^ "The original Iron Lady rides again"、『デイリー・テレグラフ』2003年10月11日、2006年9月23日改訂、"Boudica's Last Battle" Archived 2007年9月27日, at the Wayback Machine.『Osprey Publishing』2006年9月23日改訂
- ^ "Is Boudicca buried in Birmingham?"、 BBC2006年5月25日、2006年9月9日改訂
- 1 ワトリング街道の戦いとは
- 2 ワトリング街道の戦いの概要
- 3 その後
- 4 参考文献
ワトリング街道の戦い
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「ガイウス・スエトニウス・パウリヌス」の記事における「ワトリング街道の戦い」の解説
「ワトリング街道の戦い」も参照 61年、スエトニウスは第14軍団ゲミナを率いてブリタンニアの抵抗勢力が立て篭もるドルイドの要塞があった北ウェールズのモナ島(現在のアングルシー島)鎮圧に当たっていた。彼の不在に乗じた南西ブリタンニア諸族はイケニ族の女王ブーディカを中心に蜂起、反乱を開始した。植民地カムロドゥヌム(現在のコルチェスター)は破壊され、クィントゥス・ペティリウスの軍は打ち負かされた。スエトニウスは急ぎモナ島と和平の同意を取り付け、反乱軍次の標的となるロンディニウム(現在のロンドン)へ急行した。スエトニウスは当初こそ市街戦やむなしとの予測を立てていたが、自軍の兵卒の少なさに加え、ペティリウス敗戦の報に触れるに至り、大局的な視点からロンディニウムを見放す決断を下した。ブーディカ軍はロンディニウムに次いでヴェルラミウム(現在のセント・オールバンズ)にも攻め入り、これらの都市は破壊され尽くした。 これらの都市と市民の犠牲と引き換えに時を稼いだスエトニウスは、第20軍団ウァレリア・ウィクトリクス(en)からの派遣隊を加え、さらに可能な限りの予備役隊との合流を果たし、戦力の補強を着々と進めた。ただ、エクセター近郊に展開していた第2軍団アウグスタの司令官ポエニウス・ポストゥムス(en)はこれに応じなかった。それでも何とか10,000人の軍団を集めたスエトニウスは、歴史学者タキトゥスによれば100,000、カッシウス・ディオによると230,000といわれるブーディカの大軍と対峙した。ワトリング街道の戦いと呼ばれるこの戦闘では、戦場選びから始まったスエトニウスの知略が充分に発揮された。森に阻まれた狭窄な地に陣取り、装備の差を見て取るやピルムの投擲でブリタンニア軍の勢いを削ぎ、訓練された兵卒の軍団を巧みに展開し、まさに圧勝を得た。 戦後、スエトニウスはゲルマニアから戦力を補強し、反乱再発の芽を摘むべく残党を粛清する刑罰制定などを進めた。しかしこれではさすがに逆効果と判断された。ローマ皇帝ネロの意向を受けた新任の行政長官ガイウス・ユリウス・アルピヌス・クラッシキアヌス(en)が着任し、スエトニウスの権限は軍事行為のみに限定された。ネロの解放奴隷政策推進を名目に行われた調査で、スエトニウスは彼が数隻の船を失っていたことを口実に指揮権を剥奪され、その地位はプブリウス・ペトロニウス・トゥルピリアヌスに渡された。
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