ロサンゼルスオリンピック
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ロサンゼルスオリンピックは、夏季大会として2回開催され、3回目の開催が予定されている。
- 1 ロサンゼルスオリンピックとは
- 2 ロサンゼルスオリンピックの概要
ロス五輪
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「en:Swimming at the 1932 Summer Olympics – Men's 100 metre freestyle」を参照 1932年(昭和7年)8月6日、100m自由形予選は4組で、河石は第2組に入った。ロス五輪競泳日本代表の中で一番最初に泳ぐことになった。この予選、当初判定では河石は2着と発表されたが、審判の安部輝太郎の判定により3着に変更された。安部は、河石がベストサードで予選通過できるとわかった上で判定に抗議したと証言しており、結果周りから非常にフェアだと有難がれたという。同日、準決勝は2組で、河石は第2組に入り59秒0で1位通過。 同年8月7日午後3時20分、決勝。宮崎が五輪新記録で金メダル、河石は58秒6で2位に入り銀メダルを獲得した。この好発進が日本チームの勢いを生んだと言われ、この大会では男女計11種目中金メダル5個を含む12個のメダルを"水泳王国日本"が独占した。 河石の回想によると、予選の組み合わせは本人も含め誰もが苦戦を予想していた。加えて日本選手団で最初に泳ぐことになったため、2、3日前から上がっていたが、予選のスタートに立つととても落ち着いてよい気持ちになった。そして予選2着で喜んでいたが3着に変わってはっとしたが、ベストサードで予選通過となりまた喜んだ。そこで準決勝では開き直って何も考えずに挑んだことで、決勝に進めた。決勝は宮崎が優勝するものだと判っていたため気楽に挑んだことが好成績につながったと証言している。また河石はのちに、思い残すことは一寸もなかった、完全に責任を果たした、と語っている。 地元能美島に帰ると盛大に歓迎されお祭り騒ぎとなった。この時海で模範泳法を披露した。修道中出身では河石の他、大横田・河津・永田寛もメダルを獲得しており、修道中では掲揚台に3本日章旗が揚げられた。
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