モスクワ講和条約とは? わかりやすく解説

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モスクワ講和条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/09 07:46 UTC 版)

モスクワ講和条約(モスクワこうわじょうやく)は、1940年3月12日にフィンランドソビエト連邦により署名され、同21日に批准された講和条約である[1][リンク切れ]。これにより105日間に渡って続いた冬戦争は終結した。


  1. ^ First published in English as Finland – Union of Soviet Socialist Republics.
  2. ^ Protocol appended to the treaty of peace concluded between Finland and The Union of Soviet Socialist Republics on 12 March 1940
  3. ^ Степаков, Виктор, Евгений Балашов. В «Новых районах»: Из истории освоения карельского перешейка, 1940–1941, 1944–1950.
  4. ^ フィンランド領土割譲、和平協定成る(『東京日日新聞』昭和15年3月14日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p383-p384 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年


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モスクワ講和条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 01:02 UTC 版)

冬戦争」の記事における「モスクワ講和条約」の解説

詳細は「モスクワ講和条約」を参照 1940年3月12日、モスクワ講和条約が結ばれたフィンランド国土面積のほぼ10%相当するカレリア地峡割譲余儀なくされた。カレリア産業中心地であり、第二の都市ヴィープリ含んでいた。当時フィンランド全体人口12%にあたるカレリア地峡42万2千人は、ソ連側示した10日間の期限内に、故郷を離れて移住するか、ソ連市民となるか、選択迫られた。その他にも、サッラ地区バレンツ海のカラスタヤンサーレント半島、およびフィンランド湾に浮かぶ4島を割譲し、さらにハンコ半島その周辺島々ソ連軍事基地として30年租借されることとなり、8,000人の住民立ち退いたフィンランド市民にとって、この過酷な講和条件衝撃であり、その精神的ショックは、戦い続けた場合よりも大きいのではないかとさえ言われた。

※この「モスクワ講和条約」の解説は、「冬戦争」の解説の一部です。
「モスクワ講和条約」を含む「冬戦争」の記事については、「冬戦争」の概要を参照ください。

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