モスクワ講和条約
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モスクワ講和条約(モスクワこうわじょうやく)は、1940年3月12日にフィンランドとソビエト連邦により署名され、同21日に批准された講和条約である[1][リンク切れ]。これにより105日間に渡って続いた冬戦争は終結した。
- ^ First published in English as Finland – Union of Soviet Socialist Republics.
- ^ Protocol appended to the treaty of peace concluded between Finland and The Union of Soviet Socialist Republics on 12 March 1940
- ^ Степаков, Виктор, Евгений Балашов. В «Новых районах»: Из истории освоения карельского перешейка, 1940–1941, 1944–1950.
- ^ フィンランド領土割譲、和平協定成る(『東京日日新聞』昭和15年3月14日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p383-p384 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- 1 モスクワ講和条約とは
- 2 モスクワ講和条約の概要
- 3 署名
- 4 関連項目
モスクワ講和条約
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詳細は「モスクワ講和条約」を参照 1940年3月12日、モスクワ講和条約が結ばれた。フィンランドは国土面積のほぼ10%に相当するカレリア地峡の割譲を余儀なくされた。カレリアは産業の中心地であり、第二の都市ヴィープリを含んでいた。当時のフィンランド全体の人口の12%にあたるカレリア地峡の42万2千人は、ソ連側が示した10日間の期限内に、故郷を離れて移住するか、ソ連市民となるか、選択を迫られた。その他にも、サッラ地区、バレンツ海のカラスタヤンサーレント半島、およびフィンランド湾に浮かぶ4島を割譲し、さらにハンコ半島とその周辺の島々はソ連の軍事基地として30年間租借されることとなり、8,000人の住民が立ち退いた。 フィンランド市民にとって、この過酷な講和条件は衝撃であり、その精神的ショックは、戦い続けた場合よりも大きいのではないかとさえ言われた。
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