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ムラービト朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/03/19 01:59 UTC 版)

(アルモラビデス から転送)

ムラービト朝
後ウマイヤ朝
ズィール朝
1040年 - 1147年 ムワッヒド朝
ベルベル帝国の国旗
(国旗)
ベルベル帝国の位置
1120年頃のムラービト朝の領土
公用語 アラビア語ベルベル語
首都 Aghmat、マラケシュコルドバ
アミール・アル=ムスリミーン
1040年 - 1056年 Abdallah ibn Yasin(初代)
1056年 - 1056年 ヤフヤー・イブン・イブラーヒーム(第2代)
1056年 - 1087年 アブー・バクル・イブン・ウマル(第4代)
1061年 - 1106年 ユースフ・イブン・ターシュフィーン(第5代)
1146年 - 1147年 イスハーク(最後)
変遷
成立 1040年
ガーナ王国の首都クンビ・サレを占領 1076年
滅亡 1147年

ムラービト朝アラビア語المرابطون al-Murābiṭūn)は、1056年北アフリカサハラ砂漠西部に興ったベルベル系の砂漠の遊牧民サンハージャ族を母胎とするモロッコアルジェリア北西部、イベリア半島南部のアンダルシアを支配したイスラム王朝

英語読みでのアルモラヴィド朝英語: Almoravid dynasty)とも称される。

目次

ムラービトゥーンの興起

1039年、サンハージャ族の一小部族の族長ヤフヤー・イブン・イブラーヒームに率いられたメッカ巡礼の一団は、帰途に立ち寄ったカイラワーンで、スンナ派に属するイスラム神学者アブー・イムラーン・アル=ファースィーの神秘主義的な教説に共鳴して、体の弱いアブー・イムラーンから紹介された孫弟子イブン・ヤーシーンとともに故郷に帰った[1]。しかし、イブン・ヤーシーンの教説は、サンハージャ族一般の受け入れるところとならず、仕方なく、イブン・ヤーシーンと彼の教説を支持するサンハージャ族の族長たちとその配下は、現在のモーリタニアにあるセネガル川にある島に城塞(ラバート)を築いてそこに籠もり厳しい修道生活を始めた[2]。そのため、彼らは、「城塞(ラバート)に拠る人々」という意味の「ムラービトゥーン」と呼ばれた[3]。これがムラービト朝の名称の起源で、ヨーロッパには、スペイン語訛りでアルモラヴィド朝として知られる。

ムラービトゥーンたちは、修道生活に努める一方、将来の教勢拡大を考えて、身体を鍛え、剣術などの武術を磨いた。つまり彼らは、ある意味、キリスト教騎士修道会に似た存在であった[3]1053年から翌1054年にかけてアルジェリア国境に近いアトラス山中、ターフィラルト地方でのサハラ越えの交易における要衝のひとつ隊商都市シジルマーサを確保した。これを契機に、宗教的指導者イブン・ヤーシーンとヤフヤー・イブン・イブラーヒームの子孫で世俗的指導者であるヤフヤー・イブン・ウマルに率いられたムラービトゥーンたちの勢力は拡大され、「アッラーへの帰一とスンナ派帰属」の教理は、異端的な教説も含めて多数の教説が入り混じっていた当時のモロッコで、改めて見直されるようになった[3]。しかし、ムラービトゥーンたちも必ずしも一枚岩でない面もあり、1056年にヤフヤー・イブン・ウマルが暗殺され、1058年にもイブン・ヤーシーンの暗殺が起こっている[4]。ヤフヤー・イブン・ウマルは、死の直前に弟のアブー・バクル・イブン・ウマル(在位:1056年 - 1087年)に後事を託し、イブン・ヤーシーンの暗殺後は、アブー・バクルが聖俗を兼ねる指導者となった[4]。王朝の成立年とされる1056年とは、このアブー・バクル・イブン・ウマルがムラービトゥーンの指導者になった年である。

モロッコ制圧とガーナ王国の征服

ムラービト朝とその勢力の拡大。1076年ガーナ王国を征服している。

ムラービト朝は、やがて、モロッコ南部のスース地方の主要都市タルーダントを陥落させ、大西洋沿岸部のアブダ平野を北上、港湾都市サフィーなどを手に入れた。残るは、フェズを中心とするベルルアータ地方であった[5]。ベルルアータ地方の勢力は頑強に抵抗したが、「信仰は自由」という保証を与えて、ようやく政治的にはムラービト朝に服属することになった[6]。アブー・バクルは、フェズ攻略を含めたモロッコ全土の攻略を従弟のユースフ・イブン・ターシュフィーン(在位:1061年 - 1106年)に委ね、南方のガーナ王国征服に専心することになる[6]1061年1062年頃からガーナ王国に対してジハードを挑み、1076年に、首都クンビ・サレを陥落させて支配し、付近に住むサラコレ族に貢納をとった[6]。やがて反乱が起こったので、その鎮定に向かったが、1087年に死亡した[6]


  1. ^ 那谷 (1984)、p.118
  2. ^ 那谷 (1984)、pp.118-119.
  3. ^ a b c 那谷 (1984)、p.119
  4. ^ a b 那谷 (1984)、p.120
  5. ^ 那谷 (1984)、pp.120-121.
  6. ^ a b c d e 那谷 (1984)、p.121
  7. ^ a b c 那谷 (1984)、p.122
  8. ^ 那谷 (1984)、p.125-127.
  9. ^ 那谷 (1984)、p.128
  10. ^ 那谷 (1984)、pp.128-129.
  11. ^ 那谷 (1984)、pp.129-131.
  12. ^ 那谷 (1984)、pp.131-132.
  13. ^ a b c 那谷 (1984)、p.132
  14. ^ 佐藤健太郎 (2008)、p.109
  15. ^ 那谷 (1984)、pp.132-133.
  16. ^ 私市 (2002)、p.232
  17. ^ 私市 (2002)、p.224


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