東洋工業サッカー部とは? わかりやすく解説

東洋工業サッカー部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/19 06:19 UTC 版)

東洋工業サッカー部(とうようこうぎょうサッカーぶ)は、かつて存在した日本サッカークラブ。日本プロサッカーリーグに加盟するサンフレッチェ広島F.Cの前身となったクラブである[1][2][3][4]


  1. ^ 一般にサッカー御三家といえば広島・静岡埼玉のほうが著名であるが[2][4][8][14]、これは戦後から呼ばれだしたものであり、それ以前は東京・兵庫(神戸)・広島で御三家と呼ばれていた[15]
  2. ^ 九州地方代表の日鉄二瀬も同じく実業団として初出場。
  3. ^ 東洋工業の現役選手が正式にサッカー教室を始めたのは1965年から[28]。これがのちのマツダサッカースクールや今日のサンフレッチェ広島F.Cの育成組織に受け継がれていく。
  4. ^ 残り4人は、栃木2人(小沢・松本)、長崎1人(小原)、静岡1人(沼野)。
  5. ^ 2000年代後半からイビチャ・オシムらが推奨する「考えて走るサッカー」が注目されているが、彼らはそれを実践していた[30]
  6. ^ 第46回大会1966年1月14日に行われた早稲田大学との決勝戦は、国立競技場で初めて決勝が行われた大会であり、学生が最後に優勝した大会でもある(2-3対早稲田大)。
  7. ^ オイルショック前までのマツダは世界初となる自動車搭載用ロータリーエンジンの開発に成功し、圧倒的なシェアを誇るトヨタ日産を追走していた。
  8. ^ 後の1980年代、サッカー部部長に就任した今西和男は、他チームと比べて初任給に差があったためと分析している[41]
  9. ^ 1980年春のキャンプ時に広島県立五日市高等学校との練習試合を行い、主力メンバーを出さなかったとはいえ1-3で負けてしまった[42]。またこれはニュースとして『中国新聞』紙面で扱われた。
  10. ^ 特に県工出身の金田喜稔木村和司らが帰って来なかった時の広島のサッカー関係者の落胆は大きかった。
  11. ^ 詳細はサンフレッチェ広島F.Cの育成組織#前史を参照。
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 広島サッカーの歴史”. サンフレッチェ広島公式 (2022年). 2022年5月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月29日閲覧。仙田信吾 (2022年4月24日). “代表取締役社長 仙田信吾より「30周年に臨んで」”. サンフレッチェ広島公式. 2022年4月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月29日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w サンフレッチェ広島の歴史と現状...設立の経緯・沿革 (PDF) 2013年7月 広島県庁
  3. ^ a b c d e “マツダと100年 第5部 地元と共に<4>スポーツ 社名広めた蹴球部活躍 【マツダ100年 車づくりと地域】”. 中国新聞デジタル (中国新聞社). (2020年7月17日). オリジナルの2022年10月29日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221029125256/https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/63613 2022年10月29日閲覧。 
  4. ^ a b c d 森谷達也 (2023年2月23日). “広島のサッカー1 サンフレ 蹴球熱の結晶”. 読売新聞オンライン (読売新聞社). オリジナルの2023年3月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20230309131803/https://www.yomiuri.co.jp/local/hiroshima/feature/CO047372/20230223-OYTAT50034/ 2023年4月19日閲覧。 
  5. ^ a b c d 天皇杯で闘ってきた広島の歴史。その歴史を塗り変える時が来た。”. タグマ! SIGMACLUBweb. ガードかなさる (2022年6月16日). 2022年10月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月29日閲覧。
  6. ^ a b c d 『中国新聞』2013年12月31日付朝刊13面
  7. ^ 特集 スポーツ県・広島 - 広島県日本サッカーリーグの創世記をリードした東洋工業|賀川サッカーライブ セルジオ越後とフジタ|賀川サッカーライブラリー
  8. ^ a b c d 加部究 (2019年12月30日). “「高校サッカー選手権」の優勝回数を都道府県別にランキング!最多優勝は千葉?静岡?それとも…”. サッカーダイジェストWeb. 日本スポーツ企画出版社. 2022年4月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月19日閲覧。
  9. ^ 記録で見る天皇杯全日本サッカー選手権大会の歴史。 - JFA|日本サッカー協会
  10. ^ a b c J's GOALニュース【第93回天皇杯 決勝 横浜FM vs 広島】広島側プレビュー:今こそ、負の歴史を~
  11. ^ a b 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
  12. ^ 『サッカーマガジン』1966年07月01日号20頁。
  13. ^ 1960年11月30日、日ソ交歓サッカー 芝に弾んだボール(さよなら市民球場 思い出のあの試合)”. 中国新聞 (2008年7月13日). 2009年6月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年12月11日閲覧。
  14. ^ Jリーグ百年構想 Jリーグ百年構想が目指すもの〜スポーツを通じた街づくり(Internet Archive)、サッカーのまち さいたま FOOTBALL Guide 11-12 - さいたま市清水サッカーの歴史 | 清水サッカー協会/静岡県サッカー協会中東部支部蹴球都市と呼ばれて サッカーに明け、サッカーに暮れる、サッカーの街・藤枝”. 藤枝市サッカー協会. 2020年8月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月3日閲覧。【高校サッカー軌跡・広島】広島代表の軌跡を辿る 「サッカー王国・広島」復活へ”. 第100回全国高等学校サッカー選手権大会. 日本テレビ (2021年12月25日). 2021年12月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月19日閲覧。小嶺忠敏 (4/4) 日本サッカーは進歩したが、根付き度で世界との差は大
  15. ^ 『サッカー静岡事始め』、静岡新聞社、2006年、14頁
  16. ^ 『静岡サッカー70年のあゆみ』静岡サッカー70年のあゆみ編集委員会、静岡県サッカー協会、1990年、706頁
  17. ^ a b c さあ行け サンフレ サッカー専門家に聞く『私の再生計画』”. 中国新聞 (2003年4月8日). 2003年6月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年12月11日閲覧。
  18. ^ コーチ歴30年、平田生雄さん逝く”. 賀川浩の片言隻句 (2009年4月8日). 2012年12月11日閲覧。賀川浩. “全国優勝大会の大正末期の技術進歩。ドイツ捕虜との交流で進化した広島”. 賀川サッカーライブラリー. http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2474 2013年5月17日閲覧。 賀川浩. “攻守兼備のMF 努力の人 小城得達(上)”. 賀川サッカーライブラリー. http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=760 2013年5月17日閲覧。 <お探しのページを表示できません> 学習開発学研究 2号 - 学内刊行物 - 広島大学 学術情報リポジトリ フィールドと学び 一広島というローカリティをグローバル文化で考える[リンク切れ]
  19. ^ 『広島スポーツ史』「財団法人広島県体育協会」、1984年、311頁、『若き血潮は燃える、旧制全国高等学校ア式蹴球大会編集委員会』、朝日新聞東京本社、1985年、39、87、162、213頁、『栄光の足跡 広島サッカー85年史』 「広島サッカー85年史編纂委員会」 財団法人 広島県サッカー協会、2010年、3、20-25頁
  20. ^ 『週刊サンケイ』1979年03月15日号、p126-130
  21. ^ a b 『サッカーマガジン』1966年06月01日号。
  22. ^ 運動年鑑. 昭和17年度』朝日新聞社、1942年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9551312014年8月2日閲覧 
  23. ^ a b 第34回天皇杯獲得”. 慶應義塾大学体育会ソッカ-部K.B.F.. 2012年12月11日閲覧。[リンク切れ]
  24. ^ 賀川浩 (2003年2月). “東洋工業の4連覇”. 月刊グラン(賀川サッカーライブラリー). 2012年12月11日閲覧。
  25. ^ 天皇杯全日本サッカー選手権大会 HISTORY 大会の歴史 第34回大会 1954年(昭和29年)5月22日~25日 優勝慶BRB応”. NHKスポーツ. 日本放送協会 (2022年). 2022年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月29日閲覧。
  26. ^ 修道高校を全国優勝、東洋工業で日本リーグ5回優勝 “東京”後のサッカーをリードした監督 下村幸男(下)
  27. ^ 鈴木武士編著、長沼健発行『天皇杯六十五年史』 財団法人日本サッカー協会、1987年、131、131頁
  28. ^ 『サッカーマガジン』1966年11月1日号、78頁
  29. ^ 『サッカーマガジン』1971年6月。
  30. ^ ビバ!スポーツ時評”. viva! soccer.net (2006年8月7日). 2012年12月11日閲覧。(Internet Archive)
  31. ^ a b c 野村尊敬インタビュー”. リーダーシップ論. 日本サッカー名蹴会. 2018年1月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年4月19日閲覧。
  32. ^ 『輝く埼玉サッカー75年の歩み』埼玉県サッカー協会、1983年、455頁
  33. ^ file16 大仁邦彌氏(日本サッカー協会会長) - HiNT!進化挑戦のヒケツ、『東京大学のサッカー 闘魂90年の軌跡』、東大LB会、2008年、31頁、『風呼んで翔ける荒鷲よ ー慶応義塾体育会ソッカー部50年ー』三田ソッカー倶楽部、1978年、19頁、勝沢要『イレブンよ 熱き大地を駆けろ』テレハウス、1986年、102頁、『週刊サッカーマガジン』2009年3月24日号、84頁
  34. ^ 『サッカーマガジン』1967年1月1日号、46-49頁
  35. ^ 「日独のきずな サッカーへの情熱(上)」『毎日新聞』2006年5月2日付朝刊、第18面
  36. ^ 加部究『大和魂のモダンサッカー』双葉社、2008年、100頁
  37. ^ 勝沢要『イレブンよ 熱き大地を駆けろ』、テレハウス、1986年1月、102頁
  38. ^ 『サッカーマガジン』1971年06月01日号
  39. ^ 『サッカーマガジン』1972年06月01日号
  40. ^ 年末年始を語る(1)まずは高校サッカー”. 賀川浩の片言隻句 (2009年1月14日). 2012年12月11日閲覧。
  41. ^ 広島サッカー向上委員会、インタビュー4
  42. ^ 『サッカーマガジン』1980年3月25日
  43. ^ a b c d 『サッカーダイジェスト』1987年4月号。
  44. ^ a b c オフトの名言 選手奮起”. 朝日新聞 (2012年6月19日). 2012年12月11日閲覧。
  45. ^ a b c 熱き指導者フォルケス”. 朝日新聞 (2012年6月21日). 2012年12月11日閲覧。
  46. ^ クラブの指導者を紹介します。”. MUNE広島FC. 2012年12月13日閲覧。
  47. ^ 偶然か。必然か。サンフレッチェ広島出身者から優秀な監督が続出
  48. ^ J2栃木監督に71歳松本氏 J最高齢”. サンケイスポーツ (2013年9月13日). 2013年10月29日閲覧。
  49. ^ J連覇の広島 昇格の徳島と共通点とは


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