龐統
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龐 統(ほう とう、179年 - 214年[1][2])は、中国後漢末期の武将・政治家。孫権・劉備に仕えた。字は
- ^ a b c The Sanguozhi stated that Pang Tong died at the age of 36 (by East Asian age reckoning) in 214 CE. By calculation, his birth year should be around 179.
- ^ de Crespigny, Rafe (2007). A biographical dictionary of Later Han to the Three Kingdoms (23–220 AD). Brill. p. 689. ISBN 978-90-04-15605-0
- ^ 『三国志』魏志 劉表伝が注引く『傅子』
- ^ 『三国志』にはこの時点で南郡の功曹に関する記述はありません。
- ^ 『三国志』蜀志 龐統伝 が注引く『江表伝』
- ^ 『三国志』蜀志 龐統伝 が注引く『荊州県志』
- ^ 劉備は「君はかつて周瑜の功曹で、周瑜とも親しくしたと聞く。周瑜が孫権に進言して、わしに対して呉に赴き、孫権の妹を娶った。そのとき周瑜はこのわしを呉に抑留させる計略があったと聞くが事実であろうか?」と言った。龐統は「事実でしょう」と述べた。劉備は「あのときのわしは孫権に貸しがあったから、どうしても呉に行かなければならなかったのだ。婚約者だったその妹は手強いし、危うく周瑜の策に嵌ってしまうところだった。策士は策士の心を知るという類は友を呼ぶの喩えだな。孫権は荊州全域を逸早く支配したかったから、あのようなことをしたのだ。わしが呉に向かうときに最も反対したのが、諸葛亮と趙雲であった。しかし、運よく帰還できたのは奇跡だった」と安堵して述べた。
- ^ 『九州春秋』
- ^ 『三国志』「蜀書 巻二 先主伝」
- ^ 『世説新語』言語篇 の劉孝標注では享年38となっている。なお雒の攻囲戦は213年から214年と越年して行なわれているため、龐統の没年がどちらなのかは不明である。
- ^ 名臣20選には、荀彧、荀攸、袁渙、崔琰、徐邈、陳羣、夏侯玄、王経、陳泰(以上魏)、諸葛亮、龐統、蔣琬、黄権(以上蜀)、周瑜、張昭、魯粛、諸葛瑾、陸遜、顧雍、虞翻(以上呉)を選出している
- ^ 龐統は「士元弘長 雅性内融 崇善愛物 觀始知終 喪亂備矣 勝塗未隆 先生標之 振起清風 綢繆哲後 無妄惟時 夙夜匪懈 義在緝熙 三略既陳 覇業已基」と謳われている
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