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龐統

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/29 05:35 UTC 版)

龐 統(ほう とう、179年 - 214年[1][2])は、中国後漢末期の武将政治家孫権劉備に仕えた。士元しげん道号鳳雛靖侯荊州南郡襄陽県の出身。「臥龍がりょう」「伏龍ふくりゅう」と呼ばれた諸葛亮に対して、「鳳雛ほうすう」と称せられた。弟は龐林。子は龐宏。従父は龐徳公。族兄は龐山民(妻は諸葛亮の姉)ら。


  1. ^ a b c The Sanguozhi stated that Pang Tong died at the age of 36 (by East Asian age reckoning) in 214 CE. By calculation, his birth year should be around 179.
  2. ^ de Crespigny, Rafe (2007). A biographical dictionary of Later Han to the Three Kingdoms (23–220 AD). Brill. p. 689. ISBN 978-90-04-15605-0 
  3. ^ 三国志』魏志 劉表伝が注引く『傅子
  4. ^ 『三国志』にはこの時点で南郡の功曹に関する記述はありません。
  5. ^ 『三国志』蜀志 龐統伝 が注引く『江表伝
  6. ^ 『三国志』蜀志 龐統伝 が注引く『荊州県志』
  7. ^ 劉備は「君はかつて周瑜の功曹で、周瑜とも親しくしたと聞く。周瑜が孫権に進言して、わしに対して呉に赴き、孫権の妹を娶った。そのとき周瑜はこのわしを呉に抑留させる計略があったと聞くが事実であろうか?」と言った。龐統は「事実でしょう」と述べた。劉備は「あのときのわしは孫権に貸しがあったから、どうしても呉に行かなければならなかったのだ。婚約者だったその妹は手強いし、危うく周瑜の策に嵌ってしまうところだった。策士は策士の心を知るという類は友を呼ぶの喩えだな。孫権は荊州全域を逸早く支配したかったから、あのようなことをしたのだ。わしが呉に向かうときに最も反対したのが、諸葛亮と趙雲であった。しかし、運よく帰還できたのは奇跡だった」と安堵して述べた。
  8. ^ 九州春秋
  9. ^ 『三国志』「蜀書 巻二 先主伝」
  10. ^ 世説新語』言語篇 の劉孝標注では享年38となっている。なお雒の攻囲戦は213年から214年と越年して行なわれているため、龐統の没年がどちらなのかは不明である。
  11. ^ 名臣20選には、荀彧荀攸袁渙崔琰徐邈陳羣夏侯玄王経陳泰(以上)、諸葛亮龐統蔣琬黄権(以上)、周瑜張昭魯粛諸葛瑾陸遜顧雍虞翻(以上)を選出している
  12. ^ 龐統は「士元弘長 雅性内融 崇善愛物 觀始知終 喪亂備矣 勝塗未隆 先生標之 振起清風 綢繆哲後 無妄惟時 夙夜匪懈 義在緝熙 三略既陳 覇業已基」と謳われている


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