ブヤン・ダシュ
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ブヤン・ダシュ(モンゴル語: Buyan Daš、生没年不詳)は、チンギス・カンの次男のチャガタイの子孫で、大元ウルスで活躍したモンゴル帝国の皇族。『集史』などのペルシア語表記はبویان تاش(Būyān tāš)。
- ^ 杉山2004,334-370頁
- ^ 『元史』巻34,「[至順元年三月]甲戌、封諸王速来蛮為西寧王」
- ^ 『元史』巻36,「[至順三年三月]己卯、詔以西寧王速来蛮鎮御有労、其如安定王朶児只班例、置王傅官四人、鑄印給之」
- ^ 速来蛮西寧王・速丹沙・阿速歹は「莫高窟造象記」と「重修皇慶寺記」双方で同じ表記、屈朮と太子養阿沙は「莫高窟造象記」でのみ、曲朮と牙罕沙西寧王は「重修皇慶寺記」でのみ見られる表記(杉山2004,270-271頁)。なお、『元史』宗室世系表ではスレイマンは「西寧王溯魯蛮」とも表記されるが、誤ってテムゲ・オッチギン家の系図に入れられている(杉山2004,272頁)。
- ^ 杉山2004,270-272頁
- ^ 『元史』巻42,「[至正十二年二月]癸未……命西寧王牙安沙鎮四川」
- ^ 『元史』巻43,「[至正十二年二月]丁巳……西寧王牙罕沙鎮四川、還沙州、賜鈔一千錠。是月……江浙行省平章政事卜顔帖木児・南台御史中丞蛮子海牙及四川行省参知政事哈臨禿・左丞桑禿失里・西寧王牙罕沙、合軍討徐寿輝於蘄水、敗之、寿輝遁走、獲其偽官四百餘人」
- ^ 杉山2004,272頁
- ^ 『高貴系譜』の諸写本ではこの人名の綴形が崩れており、اوکه شیرین(Aūka šīrīn)とも記される。しかし、この人名の原型はサンスクリット語のaloka s̀riであり、『勝利の書なる選ばれたる諸史』に記されるالوکه شیری(Alūka šīrī)という表記の方が原型に近い(赤坂2007,52頁)
- 1 ブヤン・ダシュとは
- 2 ブヤン・ダシュの概要
- 3 参考文献
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