フランシス・ベーコン (哲学者)
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初代セント・オールバン(ズ)子爵フランシス・ベーコン(英: Francis Bacon, 1st Viscount St Alban(s), PC, QC、1561年1月22日 - 1626年4月9日[1])は、イギリスの哲学者、神学者、法学者、政治家、貴族である。イングランド近世(ルネサンス期、テューダー朝(エリザベス朝)からステュアート朝)の人物。イギリス経験主義の祖。
注釈
- ^ 宗教の過激化に対する否定的な考えは、ユグノー戦争を見てきたフランス滞在中から芽生え、1584年に女王へ宛てた助言の書簡でカトリックの脅威を書きながら、恩師ホイットギフトが先導する弾圧ではなく説教によるカトリック教徒を減らす穏健な対策を提案した[19][20]。1589年の著作でも穏健な考えに基づく宗教対立への反対と、国教会とピューリタン双方へ冷静な対応を求めることを主張、解決策として国教会に自己改革とピューリタン弾圧を止めて寛容策に改めること、ピューリタンには聖書中心主義に熱狂的なあまり教会の軽蔑や論争に民衆を巻き込むことを批判、国教会との妥協を求めた[21][22]。1592年の著作でバーリー男爵の中庸な宗教政策を分析・擁護する内容にも宗教の寛容を重視する姿勢が表れている[23]。
- ^ この時のベーコンはバーリー男爵宛の手紙で女王への釈明を書き送り、発言が良心に基づく行動だと主張、反抗ではなく女王への奉仕に向けられた義務と熱意の表れと記し、謝罪せず自己の正当性を主張し続けた。だが失脚のショックは大きく、エセックス伯宛の手紙で落ち込みのあまり学究生活への引退を仄めかしたが、政界へ未練が残っていたため、復帰の機会を伺っていた[28][29][30]。
- ^ 処刑後も民衆に人気のあるエセックス伯の犯罪を白日の下に晒す目的で記した、1601年出版のエセックス伯のクーデターを書いた公開書『亡きエセックス伯ロバートによって企てられ、実行された陰謀と反逆の報告』では反乱の動機をエセックス伯の増長した野心に求め、クーデター計画の進行経過と女王に対する不満分子の引き入れを記した後、最終的にクーデターが失敗したことを女王の賢明さによることを強調して締めくくった。また、後にベーコンは弁明で「立派な心を持つ誠実な人なら誰でも、神を見捨てるくらいなら国王を、国王を見捨てるくらいなら友人を、友人を見捨てるくらいなら財貨を見捨てるであろうから」と述べ、国家に混乱をもたらしたエセックス伯を見限り、私情と公的義務の区別をつけて後者を選んだことを示唆している[38][39]。
- ^ 1612年のエッセイに追加した「結婚と独身生活について」というタイトルの文でベーコンはこう書いている。「妻と子供を持つ者は、運命に人質を預けている。というのはそれらの者は、良いことであれ災いをもたらすものであれ、偉大な事業に対する障害になるからである。確かに最良で社会に対して最大の価値ある仕事は、未婚のあるいは子供の無い人たちから生じている」。結婚生活はベーコンが社会事業を目指すあまり妻に関心を向けず、アリスにも何らかの不行跡があったと推測され、20歳以下と推定されるアリスと40代後半のベーコンの年齢差がすれ違いをもたらしたとされている[58][59][60]。
- ^ 1614年議会の短期解散は召集反対派のノーサンプトン伯が、政府が議会を抱き込もうとしていると意図的に庶民院へ噂を流したことが原因であり、政府に協力的な議員が選挙当選と引き換えに国王に有利な法案通過に協力する取引を結んだという疑惑が沸き上がり、非難の的になり派閥抗争へと発展した。議会は請負人と呼ばれた彼等と非難する勢力(反請負人)に分裂して解散、ベーコンは噂の打ち消しに奔走したが解散を阻止出来ず、解散の原因を作ったノーサンプトン伯を名指しで非難した[67][68][69]。
- ^ 1618年の書簡はベーコンが学び取った経験と政治主張が反映され、これらに沿ってそれぞれの課題を説明した。宗教は中庸、法律はコモン・ローに基づく法の支配、議会は役割を尊重しながら慎重に対応する、枢密院は人選を情実で決めず各分野の専門家を構成員に選ぶ、外交は交渉者に判断力・知恵・経験に優れて冷静な人物を選ぶ、戦争は軍備を欠かせないとしつつも戦争実行に反対、経済は自国の産業発展と土地改良を奨励する重商主義、植民は利益目当ての投資に反対し公的事業として先住民の対応に注意しながら植民地を経営する、宮廷は情実登用を防ぎ不正も避け、緊急に備えた財政の備蓄を提言した。これらイングランドの政治システムはベーコンなど親から受け継いだ豊富な知識と経験を持つ二世政治家だからこそ運営出来たが、そうした裏付けが無くシステムを理解出来ないバッキンガム侯にはベーコンの書簡を通した指導は十分消化出来なかった[78][79]。
- ^ 他の議会対策には、政府に有利なように議会を構成することを狙った点が挙げられる。議会召集前の1620年10月に軍勢派遣と特別税の必要を付記した召集布告の草案をジェームズ1世に提出、選挙で国民に影響力を持つ親政府派の人物を推薦することを図り、経験豊富な政治家を選ぶよう勧告する有権者へ向けた布告草案を作成した。実現しなかったが、議会の議論が逸脱しないように歯止めをかける言論の自由に対する自己規制の布告発布も考え、議会冒頭の演説では物事は1度に解決しないことに注意し、自己中心的な論争を避け、経験に基づく助言をすべきと主張した。ベーコンにとって議会対策は作為と偶然の間に先見があるという考えで行う備えだった[81][82][83]。
- ^ 『グレイ法曹院の催事』には異論もあり、1594年のクリスマスでグレイ法曹院で開催された祝祭行事の一環として、翌1595年1月3日に上演された仮面劇の登場人物である国王顧問官6人がそれぞれ異なる国家ビジョン(戦争・哲学・名声・国家・徳・娯楽)を国王に上奏した。このうち哲学研究による自然の征服・図書館・博物館・研究所設置を唱える2番目の顧問官がベーコンの研究者に彼の最終的な理想として重視されてきたが、劇中では他の顧問官と同列に扱われたことと、提言が顧問官達から批判されるとそれに答えなかったこと、国王が結論を出さずに熟慮を重ねるとしたことから、ベーコンはむしろ劇の過程における、他者による助言と異論を踏まえた熟慮の過程を重視、国王と顧問官を中心とした政治を政治学の原型としていたのではないかという説がある[99]。
- ^ 議会がイングランドの最高権力を持つ一方、国王が統治者として存在し、両者はいずれもイギリス憲法上不可欠とされ、一方が他方を併呑することは許されず両者の均衡で憲法は成り立つという思想。換言すれば憲法は国王大権と国民の自由の均衡で成り立つ。ヘンリー・ブラクトンら憲法思想家が主張した従来からの制限王政論がテューダー朝期に入り均衡憲法論を加えて発展、一般に広まった。またこの思想と合わせて国王大権二元論も形作られ、国王大権には法の拘束を受ける部分と受けない部分があり、前者は国民の自由に関わる物、後者は直接国民の自由に関係ない物として主張された[104]。
- ^ 司法と国家の関係の重要性について、ベーコンは十二表法の結論「民衆の安全が最高の法である」を引用して、王や政府が裁判官と相談する場合と反対に裁判官が王と政府と相談する場合は国家は上手くいっていると定義する。理由は裁判に持ち込まれる事項が個人の所有権の問題に関わることでありながら、原理と帰結が国家の問題に触れそうになるからだと書き、そうなった場合は主権などが大きく変化したり、危険な先例を生じたり、民衆の大部分に関係することを恐れている。また裁判官をソロモンの玉座の両側にうずくまるライオンになぞらえ、均衡憲法論者の立場から国王大権を擁護し職務に忠実であることを強調している[108][109]。
- ^ コモン・ロー再編はあらゆる場所から議会制定法・勅許状・判決などを含む過去の文書を調査・収集、これらからもっとも重要な物を選び時代順に記録、文書も要約した上での整理方法を提案した。再編手続きも勧告し、現実に適用出来ない無駄な判例の削除を主にした内容を5つ挙げ、議会が指名する委員会が作業準備に取り組み、最終的に議会がコモン・ロー再編を完成させることを望んだ。また法規定集の完成で後世に評価された場合、既に『判例集』を編纂していたコークより偉大な法律家になるだろうとまで宣言、コークへの対抗心と法改革の使命感を燃やした[113][114]。
- ^ 1597年の初版では兄アンソニーに、第二版では妻の妹の夫であるサー・ジョン・コンスタブルへ、第三版ではバッキンガム公へそれぞれ献辞を捧げた。第二版の献辞は本来ヘンリー・フレデリック・ステュアート王太子(エリザベス・ステュアートとチャールズ1世の兄)へ捧げる予定だったが、1612年の上梓直前に王太子が急死したため発表されず、献辞は原稿のまま残った[117]。
- ^ 地位相応の生計を立てる俸給体系が作られていない当時の裁判官は国家から支給を受けられず、訴訟当事者から支払われる手数料で生計を立てていたが、この慣習は受け取る時期によっては賄賂とも取られ、乱用を招く危険な慣習だった。議会が告発の調査中にベーコンはジェームズ1世へ報告した収賄の判例について「1.訴訟が未決の時の便宜または謝礼の約束、2.訴訟当事者の言うことを信じて全てが終わったと信じいつ贈物を受けたか検討を怠る、3.訴訟が終わった後に不正なく贈物を受け取った場合」の3点を挙げている。このうち1は否定し2は曖昧な回答になり、3は認めたが賄賂を受け取ったことは否定、判決を曲げなかったことを主張した。しかし使用人経由で贈物を受け取り確認しなかったことが収賄の疑いを招き、処理した事件が膨大な数に上り反証も出来ないため、収賄を認めるしかなくなり失脚へ陥った[126][127]。
出典
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- ^ アルフレッド・エイヤー、『ヴォルテール』、中川信・吉岡真弓訳、法政大学出版局ウニベルシタス、1991年、第二章
- 1 フランシス・ベーコン (哲学者)とは
- 2 フランシス・ベーコン (哲学者)の概要
- 3 後世の影響
- 4 栄典
- 5 参考文献
- フランシス・ベーコン_(哲学者)のページへのリンク