フィランソロピー
わが国ではこれを民間公益活動と訳しているが、フィランソロピー又はフィランスロピーとそのまま使われることも多い。
フィランソロピーは、本来は個人の自発的な利他的行為であるが、企業の社会的責任、あるいは社会的役割に関心が集まった近来、企業が直接又は財団を通じて公益活動を行うことが多く、それは企業フィランソロピーと呼ばれる。
フィランソロピーという言葉は主に米国で使われ、英国ではチャリティという言葉が使われる。
フィランソロピー/メセナ philanthropy / Me´ce´nat 仏
メセナは、フランス語で「文化の擁護」の意味から、企業などのさまざまな文化支援活動をさして使われます。各社が社内に「企業文化部」「文化支援室」などを設け、文化活動を推進しています。経団連は、産業界の募金活動や社会貢献活動の専門窓口として事務局に「社会貢献部」を設け、経常利益の1%を毎年寄付する「1%クラブ」を設立し、企業のマッチング・ギフト(社員が福祉施設に寄付する際に会社も同額の寄付をする)制度も、定着しつつあります。不況下でもメセナ実施企業が着実に増加し、ボランティア休暇などを利用した社員の社会貢献活動など社員参加の制度も拡充しています。
フィランソロピー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 00:10 UTC 版)
フィランソロピー、フィランスロピー(英: Philanthropy)とは、基本的な意味では、人類への愛に基づいて人々の「well being」(幸福、健康、クオリティ・オブ・ライフ(QOL)など)を改善することを目的とした、利他的活動や奉仕的活動、等々を指す。あるいは慈善的な目的を援助するために、時間、労力、金銭、物品などをささげる行為のことである。従来日本語では「慈善活動」「博愛」「人類愛」などとも呼んできた。この意味では「チャリティー」に近い。または、特定の活動や事業のために、長い年月をかけて労力や資金を支援するようなこと。
- ^ [1] No.2
- ^ a b 日本におけるフィランソロピー : 米国を中心とした国際的視点,歴史的視点,福祉の視点から見えてきた特徴と問題 (フィランスロピーの国際比較 : 公と私の間で)
- ^ Gázquez, José J.; Sainz, Jorge; Pérez-Fuentes, MarÃa del C.; Molero, MarÃa del M.; Soler, Francisco J. (2015-05-05). “Interpersonal value profiles and analysis of adolescent academic performance and social thinking”. Frontiers in Psychology 6. doi:10.3389/fpsyg.2015.00575. ISSN 1664-1078. PMC PMC4419551. PMID 25999891 .
- ^ Mary Lou & John Tanton; A Journey into American Conservation, by John F. Rohe, published by FAIR Horizon Press, 2002, Chapter 6, entitled Prophesy and Charity.
- ^ シネマトゥディ映画ニュース2011.7.13「レディー・ガガ、豪シドニーの名誉市民に!同性愛者支援が授与理由」参照。
- 1 フィランソロピーとは
- 2 フィランソロピーの概要
- 3 フィランソロピーと政治
- 4 脚注
フィランソロピー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 17:03 UTC 版)
「アルフレッド・スローン」の記事における「フィランソロピー」の解説
1934年にはフィランソロピー(慈善活動)のための非営利組織「アルフレッド・P・スローン財団」を設立した。また1931年には世界最初の大学における経営幹部教育プログラムである「スローン・フェローズ」(スローン研究員)をMITに設立するのを支援している。1952年にはスローン財団は「理想的な経営者」を教育するため、MITの新たな大学院「MITスクール・オブ・インダストリアル・マネジメント」の開設を支援した。このスクールは1957年、スローンの功績を記念し「MITスローン・スクール・オブ・マネジメント」(Sloan School of Management)と改名され、アメリカ屈指のビジネススクールになっている。 1957年にはスタンフォード大学経営大学院(Stanford Graduate School of Business)でもスローン研究員制度の創設を支援し、1976年には経営科学の修士号を得るためのスタンフォード・スローン修士プログラム(Stanford Sloan Master's Program)となった。 古い歴史を持つニューヨーク癌病院も、現在はスローン財団およびチャールズ・ケタリング(GMの技術者・重役)の多額の貢献を記念し、メモリアル・スローン=ケタリング癌センター(Memorial Sloan-Kettering Cancer Center)という名になっている。1951年にはニューヨーク百年協会(The Hundred Year Association of New York)から、ニューヨークへの傑出した貢献をたたえられ金メダルを贈られた。 スローンは、ロックフェラーセンターの30ロックフェラー・プラザ・ビル(現在のコムキャスト・ビルディング)にオフィスを構えていた。1956年4月2日にGM会長の座を退き、1966年に90歳で死去した。
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フィランソロピー (Philanthropy)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 15:30 UTC 版)
「メタルギアシリーズの用語一覧」の記事における「フィランソロピー (Philanthropy)」の解説
フィランソロピーは元来「慈善活動」「人類愛」「博愛」の意味。作中世界では国連にもNGO(非政府組織)として登録されている、シャドー・モセス島事件後にスネークやオタコンが組織した反メタルギア財団の名称。リボルバー・オセロットの暗躍で世界中に拡散したメタルギア亜種の破壊・根絶を目的とする(初期の設定では、メンバーはソリッド・スネーク、オタコン、メイ・リン、ナスターシャ・ロマネンコであり、資金源はナスターシャが書いた本「シャドー・モセスの真実」の売上金であったという)。
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フィランソロピー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 04:48 UTC 版)
『Rajinikanth: The Definitive Biography』の著者ナーマン・ラーマチャンドランによると、ラジニカーントは自分が行った慈善活動を非公表にすることを希望したため、彼の活動内容の多くは不明となっている。公表されている事例として、1980年代にタミル・ナードゥ州で迷信によって献眼者が不当な扱いを受けた際にテレビや演説を通じて角膜移植キャンペーンを取り上げたことが挙げられる。2011年にはアンナ・ハザレの腐敗撲滅運動(英語版)への支持を表明し、運動の参加者のために彼が主有している結婚式場を無料で提供した。ラジニカーントのファン協会は定期的に献血・献眼キャンペーンを実施し、彼の誕生日には食料配布も行っている。
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フィランソロピー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/05/31 05:08 UTC 版)
「ジュリアス・ローゼンウォルド」の記事における「フィランソロピー」の解説
1906年以降、シアーズ社の株式公開で、ローゼンウォルドはゴールドマン・サックスのもう一人の上級経営者ポール・J・サックスと友達になった。サックスはシカゴを何度も訪れたが、しばしばローゼンウォルドの家に泊まり、二人でアメリカの社会状況を議論して、アメリカではアフリカ系アメリカ人の窮状が最も深刻な問題であることに同意した。サックスはローゼンウォルドを、アフリカ系アメリカ人の教育に取り組んでいる2人ウィリアム・H・ボールドウィンとブッカー・T・ワシントンに紹介した。ローゼンウォルドはワシントンと提携し、1912年にタスケギー大学の理事長就任を要請され、この職も終生務めることになった。ローゼンウォルドは大学に寄付をしたので、ワシントンは基金を募って旅する時間を節約でき、大学の運営に多くの時間を割けるようになった。 ワシントン博士はローゼンウォルドにアメリカにおけるアフリカ系アメリカ人の教育の貧しい状態に取り組むように勧めたので、ローゼンウォルドはアラバマ州の田園地帯に6つの小さな学校の建設資金を寄付し、その学校は1913年と1914年に建設、開校され、タスケギー大学の監督下に入った。この計画はアフリカ系アメリカ人によって作られ、またそのために成されたものであったので、教育におけるローゼンウォルドの果たす役割を予兆させるものになった。ジェーン・アダムズ、ミニー・ロー、グレイス・アボット、ポール・J・サックスおよびワシントンの社会進歩主義、またエミール・ヒルシュやジュリアン・マックの改革派 (ユダヤ教)改革派ユダヤ教会(彼らの多くはローゼンウォルドの個人的友人だった)に刺激を受けたローゼンウォルドはその時間、エネルギーおよび金をフィランソロピーに捧げた。1911年に次のように記した。 人種的偏見から来る恐れは、ユダヤ人が何世紀にもわたって味わいまた今も味わっていることから、白人種の他の民族よりユダヤ人にはもっと身近なものである。 1917年、「人類の幸福」のために「ローゼンウォルド基金」を創設した。他の寄付団体とは異なり、この基金は永久に資金が続くように工夫され、フィランソロピーのために資金を使うように意図された。そのような意図ではあったが、基金は1948年までに使い果された。 ローゼンウォルドの存命中に、ローゼンウォルドとその基金から公立学校、単科大学、総合大学、博物館、ユダヤ人の慈善事業および黒人の施設に7千万ドル以上が寄付された。学校建設がローゼンウォルド基金によって推進された中でも最大の計画であり、南部で5千以上の学校、店舗および教員宿舎の建設のためにマッチング・ファンドの形で400万ドル以上が使われた。これらの学校はローゼンウォルド学校と呼ばれるようになった。 ローゼンウォルドはアメリカの100の郡が郡部農業相談員を雇うために1000ドルの助成金を出し、アメリカ農政局がアメリカの田園地帯にとって貴重なものとなる企画を実行する手助けをした。またシカゴの科学と産業の博物館を創設し後援した主要人物でもあり、これには500万ドル以上を寄付し、その会長も務めた (1927-1932)。 ローゼンウォルドは、1932年1月6日、イリノイ州ハイランドパークのラビニア地区にある自宅で死んだ。シカゴの中心街、シカゴ川とマーチャンダイズ・マートの間に立っている8人の産業界大立者の胸像の一つはローゼンウォルドに捧げられた。
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