ファブリツィオ・バルバッツァとは? わかりやすく解説

ファブリツィオ・バルバッツァ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 18:09 UTC 版)

ファブリツィオ・バルバッツァ
基本情報
国籍 イタリア
出身地 同・モンツァ
生年月日 (1963-04-02) 1963年4月2日(61歳)
F1での経歴
活動時期 1991, 1993
所属チーム '91 AGS
'93 ミナルディ
出走回数 20 (8 start)
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 2
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1991年サンマリノGP
初勝利 -
最終勝利 -
最終戦 1993年フランスGP
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ファブリツィオ・バルバッツァFabrizio Barbazza 1963年4月2日-)は、イタリアのレーシングドライバー。ファブリッツォ・バルバッツァと表記されることもある。1996年に引退した。

経歴

キャリア初期 - 1990年

元々はオートバイモトクロスレーサーとして活動していたが、4輪に転向。1983年よりイタリアF3に参戦を開始し、3年目の1985年には4勝を挙げ、ランキング3位となった。

その後、1986年よりアメリカで活動、この年アメリカン・レーシング・シリーズ(現インディ・ライツ)で4勝を挙げてチャンピオンに輝いた。翌1987年はCARTに参戦、インディ500で3位に入るなどの活躍でランキング12位に入り、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。同年はアメリカだけでなく国際F3000にも1戦参戦した。

1988年は国際F3000選手権に5戦参戦。翌1989年はCARTに8戦と全日本F3000選手権に参戦と多数の地域のトップカテゴリーへの参戦歴を持つ。1990年は再び国際F3000選手権に参戦し、最高位4位を記録する。

1991年

1991年は開幕時には国際F3000選手権に参戦していたが、5月にF1へ参戦中のフランスに本拠を置く小チームAGSと契約が成立し、第3戦サンマリノGPよりF1に参戦することとなった。しかしマシンは前年から使用し続けているJH25だったため他チームのマシンより旧式な面が多く、第8戦イギリスGPまで6戦連続予選落ちを喫し、チームが予備予選組に回された第9戦ドイツGP以降は、チームメイトのガブリエル・タルキーニととも予選落ち/予備予選落ちを続けた。9月、第14戦スペインGPを最後にAGSは参戦資金が尽き撤退したため[1]、バルバッツァは1度も決勝レースを走ることなくF1のシートを失った。

チームメイトとの予選成績は、タルキーニに4勝9敗、オリビエ・グルイヤールに1勝0敗だった。

CARTでのバルバッツァ。1992年ロングビーチGP。

1992年

F1チームと契約出来なかった1992年は、アメリカに渡りCARTに3戦スポットで参戦。12位入賞を1度記録した。

1993年

1993年はイタリアのミナルディと契約し、F1のレギュラーシートを獲得。開幕戦の南アフリカGPにて予選を24位で通過し、初めて決勝レースを走るが、鈴木亜久里に接触しリタイヤ。続く第2戦ブラジルGPでも、スタートでマーティン・ブランドルと接触し、0周リタイヤとなった。

しかし第3戦ヨーロッパGPでは、完走11台のサバイバルレースの中6位に入り、初ポイントを獲得(このレースでは、チームメイトのクリスチャン・フィッティパルディの前でフィニッシュ)。続く第4戦サンマリノGPでも、完走9台の中を生き残って6位に入り、連続入賞を果たす。しかし、ミナルディに持ち込んだスポンサーマネーが前半戦分のみの金額だったため、第8戦フランスGPを最後に契約を終え、バルバッツァはF1から去ることとなった。

この年、予選では1度もフィッティパルディの前に出ることはなかった(0勝8敗)。

IMSA

1994年より再度アメリカに渡り、IMSAシリーズにフェラーリで参戦。並行してビジネスを立ち上げ、サーキット用の衝撃吸収バリアの開発も行っていた。

1995年もIMSAに参戦していたが、4月30日のアトランタでのレース中、前を行く2台のポルシェがスピンした際、それを避けようとしてバランスを崩しコースを塞ぐ形でストップ。そして、その側面にジェレミー・デールが時速160Kmで激突、バルバッツァのマシンは2つに千切れた。バルバッツァは、頭部を負傷し手足を骨折、また肺が潰れるという重傷を負い、意識不明の重体に陥った。

その後、奇跡的に一命を取りとめ治療を行うが、1年後の1996年に引退を表明。現在ではレーシングカートショップを経営している。

レース戦績

国際F3000選手権

エントラント シャシー エンジン タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1987年 ルチアーノ・パヴェーシ・レーシング マーチ 87B コスワースDFV A SIL
VLL
SPA
PAU
DON
PER
BRH
BIR
IMO
DNQ
BUG
JAR
NC 0
1988年 ラルト RT22 JER VLL
DNQ
PAU
DNQ
SIL
18
NC 0
ジェノア・レーシング マーチ 88B MNZ
Ret
PER
DNQ
BRH BIR BUG ZOL DIJ
1990年 クリプトン・エンジニアリング レイトンハウス・90B DON SIL
Ret
PAU
Ret
JER
Ret
MNZ
4
PER
Ret
HOC
Ret
BRH
9
BIR
Ret
BUG
Ret
NOG
18
16位 3
1991年 レイナード 91D VLL
18
PAU JER MUG PER HOC BRH SPA BUG NOG NC 0

CART

チーム シャシー エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 順位 ポイント
1987年 アルシエロ・レーシング マーチ・87C コスワース・DFX LBH
17
PHX
12
INDY
3
MIL
14
POR
4
MEA
16
CLE
24
TOR
11
MIS
6
POC
14
ROA
8
MDO
24
NAZ
13
LAG
DNS
MIA
28
12位 42
1989年 アルシエロ・レーシング ペンスキー コスワース PHX LBH INDY MIL DET
20
POR
21
CLE
26
MEA
24
TOR
8
MIS POC MDO
20
ROA
12
NAZ LAG
21
24位 6
1992年 アルシエロ・レーシング ローラ ビュイック SRF
12
PHX
20
LBH
21
35位 1
ユーロモータースポーツ ローラ コスワース INDY
DNQ
DET POR MIL NHA TOR MCH CLE ROA VAN MDO NAZ LAG

全日本F3000選手権

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 順位 ポイント
1989年 モーターレーシングデベロップメント SUZ
Ret
FSW
9
MIN
11
SUZ
6
SUG
Ret
FSW
19
SUZ
7
SUZ
Ret
17位 1

F1

所属チーム シャシー タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1991年 AGS JH25 G USA BRA SMR
DNQ
MON
DNQ
CAN
DNQ
MEX
DNQ
NC 0
JH25B FRA
DNQ
GBR
DNQ
GER
DNPQ
HUN
DNPQ
BEL
DNPQ
ITA
DNPQ
JH27 POR
DNPQ
ESP
DNPQ
JPN AUS
1993年 ミナルディ M193 G RSA
Ret
BRA
Ret
EUR
6
SMR
6
ESP
Ret
MON
11
CAN
Ret
FRA
Ret
GBR GER HUN BEL ITA POR JPN AUS 19位 2

(key)

人物

  • ヘルメットデザインは真上から見るとに見えるようになっており、1982年に友人がデザインしてくれた。しかしアメリカでレースを始めた頃は、このヘルメットを見て皆が「カメ」の画だと思ったため、バルバッツァのニックネームも「カメ」になった。元々花びらは6枚にしていたが、'93年にミナルディのシートを得た際に8枚に増やした。自分で非常に気に入っているデザインだと述べている[2]
  • 決勝レースでは、下位グリッドからスタートするのが多かったものの、スタートが上手くオープニングラップでは予選より上の順位で走行していた。
  • リカルド・パトレーゼミハエル・シューマッハなど、サッカーを得意とするレーサーは多いが、バルバッツァはその中でもゴールキーパーを得意としていた。GK志望者は少ないこともあり、F1関係者主催のサッカー大会では、ゴールマウスを守る姿がよく見られた。
  • 津川哲夫は、AGS時代に酷評されていたバルバッツァに対し、一定の評価を与えていた。
  • バルバッツァが開発していた衝撃吸収バリアは、父の会社によってF1に売り込まれ、2000年にはイモラ・サーキットのリヴァッツァ・コーナーに設置された。
  • 現役当時はメキシコ料理が好きだったと言う。
  • 身長171cm。ミナルディ時代には「チームメイトのクリスチャン・フィッティパルディとは正反対の顔」「かまやつひろしに似ている」などとも書かれていた。当時日本での中継の実況を担当していた古舘伊知郎に、「F1北京原人」、「素顔の獅子舞」等のあだ名で呼ばれていた。

関連項目

脚注

  1. ^ AGS 日本GPに来日せず - 資金面の問題から来日できないのでは、と案じられていたAGSは、やはり日本に移動できなかった。チームの存続も危ぶまれている。 F1速報 1991年第15戦日本GP 21頁 ニューズ出版
  2. ^ HELMET DATA ファブリツィオ・バルバッツァ(BELL製) F1グランプリ特集 Vol.48 73-76頁 ソニーマガジンズ 1993年6月16日発行




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1993年マシンはフォードHBエンジンを搭載したM193となる。フィッティパルディとファブリツィオ・バルバッツァを起用して参戦。完走7台の開幕戦南アフリカGPにて、フィッティパルディが4位に入賞と、幸先の良いスタートを切る。その後はバルバッツァが6位2回、フィッティパルディが5位1回と、前半戦に計4度の入賞を記録した。スポンサーマネーの支払い滞りから、バルバッツァは第7戦フランスGPをもって解雇され、第8戦イギリスGPよりマルティニがチームに復帰。しかし後半戦は各数回シングルフィニッシュを記録したが、入賞は出来なかった。また、第15戦日本GPから、フィッティパルディに代わり、持参金付きドライバーのジャン=マルク・グーノンを起用した。この年はランキング8位だった。1994年同じイタリアのプライベーターであるスクーデリア・イタリアと合併。翌年までの2シーズンに渡り「ミナルディ・スクーデリア・イタリア」のチーム名で参戦した。マシンは開幕戦から第5戦まではM193Bを使用し、6戦目から最終戦までM194を使用。エンジンは前年同様のフォードV8を搭載。この年のドライバーは、マルティニと、ベテランのミケーレ・アルボレートを起用。リタイヤが多かったものの、マルティニが5位2回、アルボレートが6位1回を記録して計5ポイントを獲得。ランキング10位となった。ミナルディのF2初勝利を獲得したことのあるアルボレートは、この年限りでF1から引退した。1995年
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