パウロ書簡
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パウロ書簡(パウロしょかん、英: Pauline epistles)とは、キリスト教の聖書正典である新約聖書に収められた27文書の中でパウロが執筆したと聖書中に書かれてある文書のこと。すべて書簡の形式をとっていることから、こう呼ばれる。他の新約諸文書同様ギリシア語で書かれている。
- ^ ジョン・グレッサム・メイチェン『パウロ宗教の起源』いのちのことば社
- ^ 『新キリスト教辞典』いのちのことば社 ISBN 4264012589
- ^ 尾山令仁『聖書の概要』羊群社
- 1 パウロ書簡とは
- 2 パウロ書簡の概要
- 3 パウロ書簡一覧
- 4 脚注
パウロ書簡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/03 05:00 UTC 版)
一般にパウロ(1世紀)の真正書簡と認められている『コリントの信徒への手紙一』によると、パウロ以外の人物が伝えた異なる福音の影響により、コリントスの教会が分裂したことが分かる。コリントスの信徒で、霊・肉の二元的な考え(パウロはこれを否定しない)から、極端に肉体を蔑視し、「死人の復活」を否定する者を、パウロは非難している(『第一コリント』15:12)。この「死後の復活否定」は、仮現説と並行した思想と言える。
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パウロ書簡
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パウロ自身が記したのは、テサロニケ人への第一の手紙(執筆年代は50年頃)、コリント人への第一の手紙(執筆年代は54年頃)、コリント人への第二の手紙(執筆年代は54年から55年頃にかけての手紙の集合体とされる)、ガラテヤ人への手紙(執筆年代は54年頃)、フィリピ人への手紙(執筆年代は54年後半頃)、フィレモンへの手紙(執筆年代は54年から55年頃)、ローマ人への手紙(執筆年代は55年から56年頃)、これら以外はパウロの名を使った偽書である可能性が高いとされる。
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パウロ書簡
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パウロはかつて伝道を行ったギリシアのコリントスへ戻り、その後アナトリアのエーゲ海岸にあるエフェソス、更にトロアスへと移動した。その後再びコリントスへと戻り、その地でローマの信徒へ書簡を書いた。これが『ローマの信徒への手紙』と呼ばれる文書で、パウロの書いた書簡の中では最も重要かつ影響力ある書簡となっている。これを含むパウロ書簡と呼ばれる一連の文書群のうち、いくつかはパウロの弟子の手になる)。これらの文書には父なる神、キリスト以外の第三の神格、聖霊(聖神)が既に現れており、ひとつの神が、神秘的な三重の本性を持つというキリスト教教義の明確な特徴(三位一体)にまつわる認識は、すでにこの最初期の文書に見ることができる。 パウロにおいては罪の意識が非常に強く、彼は心の欲する善を行うことができずに、かえって心の欲せざる悪をなしてしまうことに悩んだ。そのため彼の思想では無力な人間は自力では救われることがないために、神の恩寵によってのみ救済される。そしてパウロは、イエスの死こそ神の自己犠牲であり、この神の自己犠牲によって人間は罪から解放され、これを信じ、イエスの教えを実践することで新しい生を迎えることができるという。このようにパウロにおいては内面と行為の分裂が説かれた。 パウロの政治思想としては、受動的服従が知られている。 「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。従って、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。 — パウロ、ローマの信徒への手紙13.1-4 ウォーリンによれば、パウロは政治的権威に対して負う義務と宗教的権威に対するそれを区別したが、これは政治的忠誠心と宗教的忠誠心の分離ではなく、政治秩序を神の摂理の中に位置づけ、当時のキリスト教徒が政治秩序のキリスト教的理解に基づいて受け入れるよう促したものであった。 ダントレーヴは「キリスト教政治理論の全歴史は、この[パウロの手になる]聖句に対する絶えざる注釈以外の何ものでもない」と述べている。また、M・パコーはパウロの言葉は教会と国家を分離し、国家に対するキリスト教の服従を説くものであるが、注目すべきは彼が従うべき対象として「権威」を挙げているが、「皇帝」を挙げていないことであると指摘している。またパウロはキリスト教の将来はローマ帝国とともにあると考えており、ローマ市民であったパウロはローマ当局からの保護を求めている。そのためトロクメは、パウロがローマ帝国の支配を無条件に肯定していたと指摘している。 ウォーリンによれば、パウロや初期の教会指導者たちが政治権力への服従を繰り返し述べていることは、この時代のキリスト教徒に政治秩序への鋭い対立意識があったことを物語っている。事実66年にはユダヤ戦争(〜70年)が起き、112年〜115年にもユダヤ人が蜂起し、135年にもバル・コクバの乱が起きている。 ほかに注目すべき思想としては、「自分の手で働くこと」を推奨している わたしたちが命じておいたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい — 新共同訳、「テサロニケの信徒への手紙一」4.11 これは明らかに古典古代の労働観に反する。
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パウロ書簡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 21:42 UTC 版)
詳細は「パウロ書簡」を参照 パウロ書簡には新約聖書中真性書簡として『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一』『コリントの信徒への手紙二』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『フィレモンへの手紙』があり、偽名書簡として『エフェソの信徒への手紙』『コロサイの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『テモテへの手紙一』『テモテへの手紙二』『テトスへの手紙』がある。 なお伝統的にパウロ書簡とされる『ヘブライ人への手紙』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている。
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