8時だョ!全員集合
(ドリフフェスティバル・全員集合ベスト100 から転送)
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『8時だョ!全員集合』(はちじだよぜんいんしゅうごう)は、1969年10月4日から1971年3月27日、および同年10月2日から1985年9月28日までの2期にわたってTBS系列で毎週土曜日の20:00 - 20:54 (JST、1972年9月までは20:56、1982年9月までは20:55)に放送されていた日本のお笑い番組・公開バラエティ番組である。全803回。
注釈
- ^ 1973年12月から。当初はメンバー見習いとして出演。ドリフターズの正式メンバー入りは1974年4月から。
- ^ 1974年3月まで。
- ^ 本格的に行うようになったのは1982年1月からだが、それ以前にも1980年5月3日と1981年5月9日放送分でステレオ放送を行ったことがある。
- ^ 「ドリフのズンドコ節」、「ほんとにほんとにご苦労さん」、「誰かさんと誰かさん」など。
- ^ 最後に回り舞台を使用したのは1985年6月1日の日本青年館からの放送で、1985年ではこの回のみだった。
- ^ 例外は、TBSが土曜日に開催されるオールスターゲームの放映権を獲得した場合だが、このケースも1977年までは一度もなかった。
- ^ この「熾烈な視聴率争い」について、当時のひょうきん族と全員集合のスタッフはしばしば会遇し、その際に視聴率は話題に上らなかったと語る関係者の視点もある[3]。
- ^ 現在では、出演芸能人の生放送での不用意な問題発言によるイメージの瑕疵の発生を芸能事務所側が警戒するようになっている。
- ^ 1973年6月10日にシングルとしてリリースされた「チョットだけョ!全員集合!!」と混同されることがあるが、オープニング曲へ更に番組全体のギャグなどを盛り込んだアレンジ曲であり、オープニングとは別。
- ^ 1番の歌詞に「5人の色男」という歌詞があるため。仲本と志村が復帰直後も差し替えた歌詞のまま歌われていたが、すぐに元の歌詞に戻った。
- ^ 第1期の最終回(1971年3月27日放送分)ではゲストではなく仲本と荒井が担当、(仲本)「おい、楽しかったな」「仲良くしろよな」(荒井)「いつまで見てんだよ」「もう終わりだよ」という台詞だった。
- ^ 年内最後の放送は「餅食い過ぎるなよ」「また来年」。第1期最終回は「長い間どうもありがとう」「別れるのはさびしいけどもさ」「また逢えるもんな」「病気だけはするなよ」、そして最終回は「長い間ありがとう」「元気で」。
- ^ 1998年10月3日に加藤が解答者として参加した『オールスター感謝祭'98超豪華!クイズ決定版この秋お待たせ特大号』で、志村との医療コントのVTRが流れた後、実際にクイズが出題された(加藤と志村の医療コントのVTR中、紳助と和歌子も笑っていた)。
- ^ 番組初期の頃にADとしてスタッフに加わり、後にディレクター→プロデューサーと昇格。後番組『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』のプロデューサーも務めた。
- ^ 2000年の持株会社化に伴い、芸能プロダクション事業などは新設子会社のワタナベエンターテインメントに移行した。
- ^ 付き人はすわを含め数人が出演していたが、オープニングの出演者・スタッフロールには名前が出されなかった
- ^ 加藤は1970年に交通事故による怪我および謹慎、仲本は1981年にノミ行為事件での謹慎、高木は1984年にアキレス腱の怪我のために休養といずれも出演していない期間があるため全ての回には出演していない。荒井の後任でドリフメンバーとなり、見習い期間を含めて1973年12月以降から出演していた志村も1981年に仲本同様にノミ行為事件での謹慎で出演していない期間がある。すわに関してはオープニングの出演者テロップに名前が出されていた訳ではなく(1975年には登場時にドリフ見習いとテロップされるなど扱いは別格)、正確な出演回数は分からないものの、全員集合に付き人として出演し始めたのは、いかりやに弟子入りした1972年以降となる。少なくとも1969年の番組開始時点ではまだ上京していなかったため、いずれしろ全ての回に出演していないのは事実である。いかりやも1980年に喉の手術をして声が出せなかった期間があったが、声は出せなくても番組には顔を出していたので、結果的に全ての回に出演した。
- ^ 各回のゲストは、『8時だョ!全員集合の作り方』(双葉社、2001年5月15日刊)に詳しく掲載されている。
- ^ 尾藤イサオ&ドーン名義で出演したことがある。
- ^ 盆が故障した回に、故障した盆の前で歌った。
- ^ a b c d 番組初期のトークコーナーにゲスト出演。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w コントにゲスト出演。
- ^ 現在ではむしろ障害者の門戸を狭くしてしまう、また障害者差別に繋がるという理由で逆に出演者側や団体からのクレームが来る場合もあるが、当時はこの件についてはあまり問題にされなかった。
- ^ クロスネット当時はJNNには番販で参加していた(1975年3月31日にテレビ朝日系列脱退・JNN正式加盟)。
- ^ ただし、1983年4月に福島テレビがフジテレビ系列にネットチェンジ(JNN脱退・FNN加盟)した後も1983年4月から9月の間は視聴者保護のため放送された。また、10月1日から11月19日放送分は福島県では『全員集合』は未放送。なお、福島テレビは『全員集合』の番販ネット終了後、『オレたちひょうきん族』の同時ネットに切り替えている。
- ^ 本番組の放送期間中、直前の土曜19時が『オレたちひょうきん族』の遅れネット枠にあてられた時期がある。
- ^ TBS系列ではあるものの、当時はニュース以外事実上日本テレビ系列・テレビ朝日系列とのトリプルネット状態であった。
- ^ 2011年春に行われる予定であったが、東日本大震災の影響により延期された。
(“「いい湯だョ!全員集合」キャンペーン実施(ニュースリリース)”. サントリー (2011年2月8日). 2015年5月17日閲覧。) - ^ 当初は2011年12月21日に発売される予定であった。
- ^ 『レコ大』の映像がDVD化された前例はこれまでになかったため、沢田が最初である。
- ^ 荒井注在籍時代の放送分で配信されているのは1972年12月30日放送分の1回だけである。
- ^ ただし、一部配信回ではオンエア時に付加していたテロップごと収録されたVTR素材しか現存していない事があるため、その場合は本放送当時に準じてスタッフ名や次回の出演者のテロップを加工する事なくそのまま使用している。
出典
- ^ 「キイハンターのユミちゃん」は今…女優・大川栄子がライフナビゲーターとして初の著書|まいどなニュース
- ^ TVワースト7 放映の中止を要求 日本PTA全国協議会『朝日新聞』1978年(昭和53年)8月9日朝刊、13版、22面
- ^ 高橋秀樹. “<放送作家40年・日本コント史の裏側>「ひょうきん族」と「全員集合」は視聴率争いなどしていなかった”. 2016年4月8日閲覧。
- ^ 『朝日年鑑1986』p.331。
- ^ ドリフ「8時だョ! 全員集合」の真実 スタッフ反乱にラクダ失禁も(1/4)〈週刊朝日〉|AERA dot.(アエラドット)
- ^ 『1955〜1989 ちょっとだけ狂気TVの35年 昭和バラエティ番組の時代』河出書房新社、2018年、137-138頁。
- ^ TBS 『がっちりマンデー』2012年2月5日放送 ライオンの広告宣伝
- ^ このことはフジテレビ「カノッサの屈辱」でも指摘されていた。
- ^ 「誰が小人を殺したか?」小人プロレスから見るこの国のかたち livedoor news 2009年4月22日発信、2018年7月12日閲覧。
- ^ 北野武『超思考』幻冬舎 2013 p161 - 162
- ^ a b c d 週刊ポスト令和3年12月1日号増刊セピア「昭和のライバル あなたがいたから、強くなれた」p24-27
- ^ a b 青森テレビ20周年記念出版編集委員会 企画制作『ATV20年のあゆみ』青森テレビ、1989年、71頁。
- ^ “「いい湯だョ!全員集合」キャンペーン実施(ニュースリリース)”. サントリー (2012年2月7日). 2015年5月17日閲覧。
- ^ a b ポニーキャニオン半世紀へ 日本の音楽史と重なる歩み、産経新聞、2012年7月31日。
- ^ 柏原芳恵 / Live&Rarities CD+DVD BOX - CD Journal(2015年10月1日閲覧)。
- ^ [1]
- ^ 沢田研二のTBS出演映像がDVDボックス化、「全員集合」「ザ・ベストテン」「レコ大」ほか収録 音楽ナタリー、2021年2月26日
- ^ ザ・ドリフターズ:「8時だョ!全員集合」が初のノーカット配信まんたんウェブ 2013年6月15日
- ^ [2][リンク切れ]
- ^ “ドリフ「全員集合」傑作選14時間ぶっ通し放送 テレビ初の再放送で志村さん追悼”. スポーツニッポン. (2020年11月9日) 2021年5月11日閲覧。
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