ドラゴンズの歌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/06 01:34 UTC 版)
「ドラゴンズの歌」(ドラゴンズのうた)は、日本野球機構(NPB)のセントラル・リーグに属する中日ドラゴンズの旧球団歌である。作詞・小島清[注 1]、補作・サトウハチロー、作曲・古関裕而[3]。
注釈
- ^ a b c 入選発表記事およびレコード盤による。古関裕而記念館の作品リストやコトバンク、東京新聞の2020年11月7日付記事、菊池(2021), p226の「小島情」は誤記。経済学者の小島清(名古屋市出身)や歌人で作詞家として活動した経歴もある小島清(父親が現在の刈谷市出身)はいずれも愛知県と地縁のある人物だが、発表時の住所が一致しないため同姓同名の別人と見られる。
- ^ 「中部日本新聞」からの正式な改題は1965年1月1日付。
- ^ この時期に名古屋鉄道は中日新聞社と隔年で球団運営を行っており、1951年から53年の間は球団名を「名古屋ドラゴンズ」としていたが1954年に撤退し元の「中日ドラゴンズ」へ復帰した。表題や歌詞に「中日」や「名古屋」の語句は含まれていないため、この間も改題や歌詞の変更は行われていない。
- ^ 古関は夫人が豊橋市出身の縁もありこの時期に中日新聞社関係の仕事が多く、前年に名古屋まつりのテーマ曲として同社が選定した「名古屋かっぽれ」、また「ドラゴンズの歌」の半年後には同社が愛知県と合同で選定した県民歌「われらが愛知」を作曲している。
- ^ 藤山は前年に巨人の2代目球団歌「ジャイアンツ・ソング」、また「ドラゴンズの歌」と同年に毎日の「わがオリオンズ」を歌唱しており、後にサトウハチローとのコンビで作曲家として「西鉄ライオンズの歌」や「阪急ブレーブス応援歌」を手掛けている。
- ^ 西鉄クリッパースは翌年にセントラル・リーグの西日本パイレーツと合併して西鉄ライオンズとなったが、後継の「西鉄ライオンズの歌」もサトウが作詞した。また、1962年(昭和37年)には「阪急ブレーブス応援歌」を作詞しており、前述の通り2曲とも藤山一郎が作曲している。
出典
- ^ a b NDLJP:3568421(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b NDLJP:3568422(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ a b 斎藤秀隆 (2009年6月29日). “古関裕而『うた物語』(21)「甲子園球場で大会歌を作曲」”. 福島民友 2022年2月19日閲覧。
- ^ a b “ドラ党マツケン新応援歌できた! ホーム勝利でファン全員と”. Sponichi Annex (スポーツニッポン新聞社). (2015年3月1日) 2022年2月19日閲覧。
- ^ “【プロ野球】応援歌の元祖は中日だった?”. mimi-yori (アンサンヒーロー). (2020年4月2日) 2022年2月19日閲覧。
- ^ a b c “力強い歌声、ドラゴンズの初代球団歌を披露 古関裕而さん作曲<2020“よい仕事おこし”フェア>”. 東京新聞 (中日新聞東京本社). (2020年11月7日) 2022年2月19日閲覧。
- ^ a b c d “ドラゴンズ初代応援歌は古関裕而さん作曲だった 1950年発売、幻の一曲…『エール』で再び脚光”. 中日スポーツ (中日新聞社). (2020年11月9日) 2022年2月19日閲覧。
- ^ デジタル大辞泉プラス. “ドラゴンズの歌”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2022年2月19日閲覧。
- ^ 大石始 (2020年11月23日). “朝ドラ『エール』古関裕而が「オリンピック・マーチ」に取り入れた「日本的」な“超有名曲”とは”. Sports Graphic Number. 文藝春秋. 2022年2月19日閲覧。
- ^ 菊池(2021), p227
- ^ a b 中日新聞社史編さん委員会(1972), p27
- ^ 古関裕而と野球(福島市古関裕而記念館)
- ^ “中日ドラゴンズは古関裕而が作曲した応援歌を捨てていた”. NEWSポストセブン (小学館). (2020年4月6日) 2022年2月19日閲覧。
- ^ 日本コロムビア発売のLP盤「懐かしのSP盤黄金時代」収録曲解説より。
- ^ 昇竜魂 〜ドラゴンズ70thメモリアルソングス〜
- ^ 国民的作曲家 古関裕而全集 〜長崎の鐘・君の名は・栄冠は君に輝く〜
- ^ あなたが選んだ古関メロディーベスト30
- 1 ドラゴンズの歌とは
- 2 ドラゴンズの歌の概要
- 3 その後
- 4 参考文献
- 5 出典、脚注
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