ドネツィク州
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ドネツィク州(ドネツィクしゅう、ウクライナ語: Донецька область)は、ウクライナの州の一つ[1]。州都はドネツィクだが、分離・独立派による同地の行政庁舎の占拠により、一時的にマリウポリ[2]、後にクラマトルスクに移している[3]。ロシア語名はドネツク州。2022年9月にロシアが一方的に併合を宣言した(ロシアによるウクライナ4州の併合宣言)[4]。
- ^ a b c “Області - Децентралізація в Україні”. decentralization.gov.ua. 2022年6月11日閲覧。
- ^ a b ドネツク州都を「遷都」=ウクライナ大統領 - 時事通信 2014年6月18日閲覧。
- ^ “Kikhtenko to move Donetsk administration to Kramatorsk and to leave power structures in Mariupol”. Zerkalo Nedeli. (2014年11月3日) 2015年6月23日閲覧。
- ^ a b “プーチン大統領 ウクライナ4州の併合 一方的に宣言か”. NHK NEWS WEB. (2022年9月30日) 2022年10月1日閲覧。
- ^ “ウクライナ、ロシアによる占領地での「偽の選挙」非難”. AFP (2023年9月8日). 2023年9月9日閲覧。
- ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの総人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
- ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの都市人口・農村人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
- ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの性別人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
- ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。地域別民族構成” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
- 1 ドネツィク州とは
- 2 ドネツィク州の概要
- 3 地理
- 4 人口
- 5 参考文献
- 6 関連項目
ドネツィク州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:23 UTC 版)
ウクライナの東部および南部で親露派の抗議者たちは、2014年3月1日から6日までドネツィク州庁舎を占拠した。その後ウクライナ保安庁(SBU)によって鎮圧された。4月6日、1000-2000人がドネツィクでの集会に集まり、3月にクリミアで実施されたものと同様の住民投票を要求した。デモ隊は州庁舎を襲撃して1-2階を支配した。彼らは、同州の住民投票を実施するための特別立法会議が地域当局によって開催されなかった場合は「人民の委任」で地域政府を統制し、現職のあらゆる地方議会議員と国会議員を解任すると述べた。これらの要求は満たされなかったため、活動家たちが州庁舎で会議を開いてウクライナからの独立を支持する評決を行った。2014年4月7日に彼らはドネツク人民共和国(DPR)を宣言した。
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ドネツィク州
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「2014年ウクライナでの親ロシア派騒乱」の記事における「ドネツィク州」の解説
詳細は「ドネツク人民共和国」および「ドンバス戦争」を参照 親ロシア派抗議者は、3月1日から6日にかけてドネツィク州庁舎を占拠し、その後ウクライナ保安庁によって排除された。ウクライナ政府によると、親露派武装勢力による州庁舎の占拠は「ロシア連邦で書かれた」ウクライナを情勢不安に陥れる「筋書き」の一環で、「明確なロシア語アクセントで話す各地域の過激派約1,500人」によって実行された。 3月13日、ドネツィクでマイダン支持派とアンチマイダン抗議者との激しい衝突が起きた。大規模なアンチマイダン抗議者の集団が、警察の非常線を突破して少人数のマイダン支持デモを攻撃するようになった。OSCEの報告書では、「警察部隊」が「マイダン支持の議会を守るための十分な措置を講ることに」失敗しており「アンチマイダンの抗議者が有利な形で扱われているのを観察できた」と書かれていた。現地のマイダン支持活動家がこの衝突中にアンチマイダン抗議者によって殺された。この暴動日の後、ドネツィクの住民は「自分達の安全を恐れて」マイダン支持の平和的なデモを組織しないことを決めたとOSCEに語った。 4月6日、親露派抗議者1,000-2,000人がウクライナからの独立に関するクリミア住民投票を推し進めるドネツィクの集会に参加した。その後、分離主義者200人と親露派抗議者が襲撃を仕掛けて州庁舎の1-2階を支配し、ドアや窓を壊した(日曜日で政府職員は勤務しておらず、庁舎内には警備員しかいなかった)。分離主義者はロシア加盟に対する国民投票を発表し、臨時議会が開かれなければ4月7日の正午に自分達が「人民政権」を形成して一方的な支配権(いわゆるドネツク人民共和国の創設)を宣言し、選出済みの評議員と国会議員全員を解任すると表明した。イタルタス通信によると、この宣言は一部の地方議員によって採択されたが、他の報道ではドネツィク市行政も市街区にある地方議会も、その議会に代表者を派遣しなかった。 4月6日、分離主義団体ドネツィク共和党の指導者らは、ドネツィク州が「ロシア連邦に加盟すべきかどうか」の住民投票を「2014年5月11日までに」実施する予定だと発表した。さらに、同団体の指導者らはロシアのプーチン大統領にロシアの平和維持部隊を地域に派遣するよう訴えた。この団体は2007年よりウクライナにいることを禁じられており、指導者のアンドレイ・パルギンは分離主義の容疑で数週間前に逮捕されていた。同州の政治的指導者は、ウクライナ進歩社会党の元党員で人民知事を自称するパヴェル・グバレフであるが、彼も分離主義の容疑で現在逮捕されている。 この行動に対し、ウクライナのオレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行は同国東部地域の分離主義運動に対する大規模な対テロ作戦を開始すると宣言した。同日遅く、ドネツィクにあるウクライナ保安庁(SBU)事務所がSBUのアルファ部隊によって奪還された。トゥルチノフは、武器を置いて降伏すれば分離主義者に恩赦を与え、また地域への権限委譲の可能性を含む譲歩や、法律でのロシア語保護も打ち出した。ドネツィクにいる多くの人々が分離主義者の行動に不満を表明している。
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