ドネツィク州とは? わかりやすく解説

ドネツィク州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/17 18:00 UTC 版)

ドネツィク州(ドネツィクしゅう、ウクライナ語: Донецька область)は、ウクライナの一つ[1]州都ドネツィクだが、分離・独立派による同地の行政庁舎の占拠により、一時的にマリウポリ[2]、後にクラマトルスクに移している[3]ロシア語名はドネツク州。2022年9月にロシアが一方的に併合を宣言した(ロシアによるウクライナ4州の併合宣言[4]


  1. ^ a b c Області - Децентралізація в Україні”. decentralization.gov.ua. 2022年6月11日閲覧。
  2. ^ a b ドネツク州都を「遷都」=ウクライナ大統領 - 時事通信 2014年6月18日閲覧
  3. ^ “Kikhtenko to move Donetsk administration to Kramatorsk and to leave power structures in Mariupol”. Zerkalo Nedeli. (2014年11月3日). http://mw.ua/UKRAINE/kikhtenko-to-move-donetsk-administration-to-kramatorsk-and-to-leave-power-structures-in-mariupol-119_.html 2015年6月23日閲覧。 
  4. ^ a b “プーチン大統領 ウクライナ4州の併合 一方的に宣言か”. NHK NEWS WEB. (2022年9月30日). https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220930/k10013844061000.html 2022年10月1日閲覧。 
  5. ^ ウクライナ、ロシアによる占領地での「偽の選挙」非難”. AFP (2023年9月8日). 2023年9月9日閲覧。
  6. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの総人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
  7. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの都市人口・農村人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
  8. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。ウクライナの性別人口” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。
  9. ^ ウクライナ国立統計委員会 (2001年12月5日). “2001年ウクライナ国勢調査。地域別民族構成” (ウクライナ語). 2011年12月14日閲覧。


「ドネツィク州」の続きの解説一覧

ドネツィク州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:23 UTC 版)

ドンバス戦争」の記事における「ドネツィク州」の解説

ウクライナ東部および南部親露派抗議者たちは、2014年3月1日から6日までドネツィク州庁舎占拠したその後ウクライナ保安庁(SBU)によって鎮圧された。4月6日、1000-2000人がドネツィクでの集会集まり3月クリミア実施されたものと同様の住民投票要求したデモ隊州庁舎を襲撃し1-2階支配した。彼らは、同州住民投票実施するための特別立法会議地域当局によって開催されなかった場合は「人民委任」で地域政府統制し現職あらゆる地方議会議員国会議員解任する述べた。これらの要求満たされなかったため、活動家たちが州庁舎で会議開いてウクライナからの独立支持する評決行った2014年4月7日に彼らはドネツク人民共和国(DPR)を宣言した

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ドネツィク州

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 05:15 UTC 版)

2014年ウクライナでの親ロシア派騒乱」の記事における「ドネツィク州」の解説

詳細は「ドネツク人民共和国」および「ドンバス戦争」を参照 親ロシア派抗議者は、3月1日から6日にかけてドネツィク州庁舎占拠しその後ウクライナ保安庁によって排除された。ウクライナ政府によると、親露派武装勢力による州庁舎の占拠は「ロシア連邦書かれた」ウクライナ情勢不安に陥れる筋書き」の一環で、「明確なロシア語アクセントで話す各地域過激派約1,500人」によって実行された。 3月13日ドネツィクマイダン支持派アンチマイダン抗議者との激し衝突起きた大規模なアンチマイダン抗議者の集団が、警察非常線突破して少人数マイダン支持デモ攻撃するようになったOSCE報告書では、「警察部隊」が「マイダン支持議会を守るための十分な措置を講ることに」失敗しており「アンチマイダン抗議者が有利な形で扱われているのを観察できた」と書かれていた。現地マイダン支持活動家がこの衝突中にアンチマイダン抗議者によって殺された。この暴動日の後ドネツィク住民は「自分達の安全を恐れてマイダン支持平和的なデモ組織しないことを決めたOSCE語った4月6日親露派抗議者1,000-2,000人がウクライナからの独立に関するクリミア住民投票推し進めるドネツィク集会参加したその後分離主義200人と親露派抗議者が襲撃仕掛けて州庁舎の1-2階支配しドアや窓を壊した日曜日政府職員は勤務しておらず、庁舎内には警備員かいなかった)。分離主義者はロシア加盟対す国民投票発表し臨時議会開かれなければ4月7日正午自分達が「人民政権」を形成して一方的な支配権いわゆるドネツク人民共和国創設)を宣言し選出済み評議員国会議員全員解任する表明したイタルタス通信によると、この宣言一部地方議員によって採択されたが、他の報道ではドネツィク市行政市街区にある地方議会も、その議会代表者派遣しなかった。 4月6日分離主義団体ドネツィク共和党指導者らは、ドネツィク州が「ロシア連邦加盟すべきかどうか」の住民投票を「2014年5月11日までに」実施する予定だと発表した。さらに、同団体指導者らはロシアプーチン大統領ロシア平和維持部隊地域派遣するよう訴えた。この団体2007年よりウクライナにいることを禁じられており、指導者のアンドレイ・パルギンは分離主義容疑で数週間前に逮捕されていた。同州政治的指導者は、ウクライナ進歩社会党の元党員人民知事自称するパヴェル・グバレフであるが、彼も分離主義容疑で現在逮捕されている。 この行動対しウクライナオレクサンドル・トゥルチノフ大統領代行同国東部地域分離主義運動対す大規模な対テロ作戦開始する宣言した同日遅くドネツィクにあるウクライナ保安庁(SBU)事務所SBUアルファ部隊によって奪還された。トゥルチノフは、武器置いて降伏すれば分離主義者に恩赦与え、また地域への権限委譲可能性を含む譲歩や、法律でのロシア語保護打ち出したドネツィクにいる多く人々分離主義者の行動に不満を表明している。

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