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難読語辞典

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跳梁

読み方:チョウリョウ(chouryou)

おどりはねること



三国志小事典

むじん書院むじん書院

長陵Chang ling

チョウリョウ
チヤウリヨウ

前漢時代には戸数五万人口は十七あったというが、王莽の乱で十分の一になり、また羌族暴力によって、戸数は四千未満になってしまっていた。

県令】尹敏 / 吉黄

【県吏】楽親

県人王元 / 楽恢 / 楽已 / 第五倫 / 第五頡 / 第五種 / 第五防 / 第五儁 / 第五元 / 第五文休 / 趙岐 / 趙戩


張陵Zhang Ling

チョウリョウ
チヤウリヨウ

34?~179?)
徴士

字は輔漢《張魯集解》。沛国豊の人。張魯祖父張衡の父《張魯伝》。「天師」「張道陵」とも称される《張魯集解》。

建武十年(三四)、呉の天目山生まれたという。さまざまな書物習い、もともとは大儒学者であった。直言して諫めたため、江州県令左遷された。官を棄てて洛陽北邙山に隠れ住み、煉形術を修得した。章帝博士官職用意して彼を招いたが、張陵は赴かず、和帝即位したとき太傅・冀侯に取り立てようとしたが、やはり拝受しなかった《張魯集解》。

淮水渡って鄱陽入り龍虎山に登って天の精気一身に集めた。神秘の源を探して西方行き、壁洞において「制命五岳摂召霊及神虎秘文」を発見し、そこで嵩山石室行き、『黄帝九鼎丹経』を手に入れた《張魯集解》。

そうして道術極めたが、巴蜀名山多く、また病気流行して人々苦しんでいると聞き順帝御代、蜀に仮住まいした《張魯集解後漢書劉焉伝》。初め陽平山に居を構えたが、のちに鳴山に移り、そこで玄元老君老子)の神秘的な声を聞いて、経典奥義を授かった《張魯集解》。

三国志張魯伝では「鳴山」とあるが、『後漢書』『水経注』では「鳴山」、『太平御覧』では「鳴山」とする《張魯集解》。

こうして身体分解して変化現し、『道書二十余篇を著述して「天師」を自称した。蜀の古老が「むかし漢の高祖二十四気に対応する二十四の祭壇を作ったので、王となって天下領有できたのだ」と語るのを聞いて、その二十四の祭壇で牛をつぶして祭祀行い、土の祭壇屋根設けて「二十四治」と称する治療所を作り、さらに四つ増やして二十八宿と対応させた。そのため病気は減っていった。塩水の湧く井戸発掘したり、城に住む鬼を退治したといった話は数え切れない張魯集解》。

永寿二年(一五六)、また渠亭山に住まい移し、「三五斬邪雌雄剣」を見付けだした。陽平の治では(?)、彼の度重なる功績評価し、「天師衡使」の印を授け、代々受け継がせることにした《張魯集解》。

熹平年間(一七二~一七八)の末期、張陵は大蛇呑み込まれて姿を消した。子の張衡駆けずりまわって父の亡骸を探したが見付けることができず、そこで霊験現し変化したのだと言い、崖の上に石を置いて目印とした。光和二年(一七九)、「正月七日昇天いたすゆえ、張衡が天師を継承せよ」との遺書を残し、張陵は雲に乗って昇天した。齢百二十であった《張魯集解》。

建武十年生まれ光和二年に昇天したというから百四十六歳になるはずで、計算が合わない。それを指摘する盧弼も百五十七歳と誤っている《張魯集解》。

彼が百姓たちを惑わす際、信奉する者に五斗の米を提出させた。それゆえ米賊と呼ばれているのである張魯伝・後漢書劉焉伝》。

参照張衡 / 張魯 / 劉炟章帝) / 劉肇和帝) / 劉邦高祖) / 劉保順帝) / 老子玄元老君) / 呉 / 江州県 / 鳴山(山・鳴山) / 漢 / 冀県 / 渠亭山 / 蜀 / 嵩山 / 沛国 / 巴蜀 / 鄱陽県 / 壁洞 / 豊県 / 北邙山 / 陽平 / 雒陽県(洛陽県) / 龍虎山 / 淮水 / 県令 / 侯 / 太傅 / 博士 / 黄帝九鼎丹経 / 制命五岳摂召霊及神虎秘文 / 道書 / 三五斬邪雌雄剣 / 治(治療所) / 天師 / 米賊 / 煉形術


張遼Zhang Liao

チョウリョウ
チヤウレウ

169222
魏使持節前将軍晋陽剛侯

字は文遠。雁門郡馬邑県の人。もともと聶壱の子孫だが匈奴復讐避けるため姓を改めた。

若いころ郡役人となり、武勇見込まれて幷州刺史丁原従事として召し出される。兵を率いて都に赴き、大将軍何進のために河北兵卒千人徴募したが、帰洛したとき何進宦官に殺されていたので董卓に属し、また董卓も敗れると呂布に属して騎都尉に任じられた。呂布李傕に敗れて徐州逃れると、魯国相となる。ときに二十八歳。曹操下邳呂布を滅ぼすと軍勢を引き連れて投降し、中郎将関内侯となった。のち武功重ねて将軍昇進する。袁紹敗北すると魯国諸県平定した。

東海郡に拠る昌豨夏侯淵とともに包囲したが、数ヶ月のあいだ落とせず兵糧が底をつき、軍議の席で撤退について話し合いとなった。張遼は夏侯淵に「ここ数日昌豨は私の顔をじっと見つめて矢を射ようともしません。私に彼と話をさせて下さいと言った。そこで使者をやると昌豨は城を出て話し合いに応じ、張遼が「曹操様は徳義によって天下を治めておられる。今帰服すれば大きな恩恵を受けられるだろう」と言うと昌豨喜んで投降した。曹操はこれを聞いて「大将やることではない」と叱ったが、張遼は「明公の威信天下鳴り響いているので、昌豨には逆らう勇気がないと思ったのです」と陳謝した。

袁譚袁尚討伐のため黎陽従軍し、行中堅将軍に任じられた。また鄴の袁尚攻撃したが、袁尚が堅く守ったので、曹操は許に帰還して、張遼と楽進陰安攻略して住民黄河南岸移した。また鄴を攻撃して、これが陥落すると、趙・常山平定し、黒山孫軽らを降伏させた。さらに袁譚攻撃参加してこれを破ると、別軍を率いて沿海地域攻略し、遼東の賊柳毅撃破した。鄴に帰還すると曹操は自ら張遼を迎え、手を引いて同じ車に乗せ、盪寇将軍任命した。

また別軍を率いて荊州江夏郡を平定し、臨潁に戻って駐屯し、そこで都亭侯に封じられた。袁尚討伐戦に従軍して柳城に至ったが、突如蹋頓らが襲撃してきた。張遼は曹操迎撃することを勧めたが、彼の意気軒昂たる様子見て曹操指揮の旗を張遼に授けて戦わせた。張遼は賊軍と戦って撃ち破り、単于蹋頓の首を斬った。

長社駐屯したとき、叛逆企てた者が夜間に火を放ち軍中大い混乱した。張遼は側の者に「みだりに動くな。叛逆者騒ぎ大きくしているだけだ」と言って軍中に静まるように命令し、張遼自身は数十人の供を連れて陣の中央に立つと、騒動は鎮まったので、叛逆者を捕まえて処刑した。

陳蘭梅成が六・灊県をこぞって叛乱すると、于禁臧霸梅成にあたり、張遼は張郃朱蓋連れて陳蘭にあたった。梅成一度于禁に降ったが再び背き陳蘭とともに灊山に立て籠もった。山の中に天柱山という頂があり、その上に陳蘭らの砦があったが、そこまでの道は狭く険しかったので、将軍たちは「我が軍の数は少なく道は険しいので進むことができないと言ったが、張遼「これは一騎打ちの道といって勇者なら進むことができるのだ」と言って侵入し、陳蘭梅成らを攻撃して首を斬った。曹操はこれを賞して張遼の所領加増し、仮節を与えた。

のちに楽進李典ら七千人とともに合肥駐屯して孫権備える。曹操漢中制圧のため西方に行ったので、孫権軍勢十万起こし合肥攻め寄せた。曹操事前に彼らに残した命令書には「張遼・李典城外で戦え」とあったが、諸将はためらって同意しなかった。張遼は「公の救援を待っていたら我が軍は敗北するぞ。敵の包囲網が整わぬうちに攻撃してから守ればよい」と主張し、李典賛成したので、勇気のある兵士八百人を募集し、牛を潰して彼らに振る舞った。

翌朝、張遼は自ら先頭に立って敵陣突入し、二人の将と数十人の兵を斬り、名乗りを挙げながら孫権本陣まで迫った。孫権らは驚いてなすすべなく小高い丘に逃れた。張遼は下りてきて戦えと叫んだが、孫権は敵の少なさ見て取って彼らを包囲させた。張遼は左右に斬り込んで、数十人部下とともに幾重にも重なる包囲を切り抜けた。残された部下たちが「私たちを見捨てないでください」と叫んだので再び敵中飛び込み、彼らを救い出してやった。こうして真昼まで戦い孫権軍勢はすっかり戦意をなくしてしまったので、張遼は合肥城に帰還した。孫権は十余日かけて城を落とせなかったので撤退したが、張遼はこれを追撃して孫権を捕える寸前まで大勝利を収めた。曹操は非常に感じ入り、彼を征東将軍に任じた。

建安二十一年(二一六)、曹操孫権征伐のため合肥駐屯したとき、張遼が戦った場所を巡り歩いて感歎した。張遼の兵を増やして居巣駐屯させた。のち曹仁樊城関羽包囲されたので張遼は救援に向かった。到着しないうちに徐晃関羽を破ったので、摩陂で曹操拝謁した。曹操は輦に乗って張遼の軍をねぎらった。孫権はすでに帰服していたので、陳郡に駐屯することになった。

曹丕が魏王に即位すると前将軍拝命する。領地を兄張汎分けられ、子が列侯封じられた。再び孫権叛逆したので合肥駐屯し、都郷侯に封じられた。張遼の母に車が支給され、家族官軍に守られて合肥に赴いた。彼らが到着すると、合肥駐留する諸将軍吏は道に並んで挨拶をして出迎えた。

曹丕帝位即く晋陽侯に進められ、千戸加増されて二千六百戸となった。翌黄初二年(二二一)に洛陽参内したとき、曹丕親しく孫権を撃ち破ったときのことを尋ね感嘆して彼を「古の召虎である」と言った。また彼のために邸宅を建て、その母のために御殿を築いた。そして張遼とともに孫権と戦った兵士たち召し虎賁とした。

孫権が臣礼をとったため駐屯地雍丘移したが、ここで病気に罹った。曹丕侍中劉曄と太医を張遼のもとに派遣し、また虎賁たちも彼の病気を心配して道路に引きも切らなかった。曹丕は彼を行在所召し寄せ親しく見舞って手づから御衣下賜した。また太官に命じて天子と同じ食事を贈った。こうして張遼の病気はやや治癒した。

孫権はまたも叛逆したので、張遼は舟に乗って曹休とともに海陵駐屯した。このとき孫権は彼を恐れ諸将に「張遼は病気とはいえ油断してはならぬぞ」と命じた。張遼は孫権の将呂範撃破した。張遼の病気はますます重くなって、江都にて亡くなった。曹丕彼のために涙を流し、剛侯と諡した。

参照于禁 / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 何進 / 夏侯淵 / 楽進 / 関羽 / 朱蓋 / 徐晃 / 召虎 / 昌豨 / 聶壱 / 曹休 / 曹仁 / 曹操 / 曹丕 / 臧霸 / 孫軽 / 孫権 / 張郃 / 張汎 / 陳蘭 / 丁原 / 董卓 / 蹋頓 / 梅成 / 李傕 / 李典 / 柳毅 / 劉曄 / 呂範 / 呂布 / 陰安邑 / 海陵県 / 合肥侯国 / 下邳国 / 河北 / 漢中郡 / 雁門郡 / 許県 / 鄴県 / 居巣県 / 荊州 / 江夏郡 / 江都 / 徐州 / 常山国 / 晋陽県 / 灊山 / 潜県(灊県) / 趙国 / 長社県 / 陳国(陳郡) / 天柱山 / 東海郡 / 馬邑県 / 樊城 / 幷州 / 摩陂 / 雍丘 / 雒陽県(洛陽県) / 六県 / 柳城 / 遼東郡 / 臨潁県 / 黎陽県 / 魯国 / 王 / 関内侯 / 騎都尉 / 侯 / 剛侯 / 刺史 / 侍中 / 従事 / 相 / 征東将軍 / 前将軍 / 太医 / 太官 / 大将軍 / 中堅将軍 / 中郎将 / 盪寇将軍 / 都郷侯 / 都亭侯 / 裨将軍 / 諡 / 仮節 / 宦官 / 匈奴 / 行 / 黒山賊 / 虎賁 / 単于 / 輦 / 列侯



歌舞伎・浄瑠璃外題辞典

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張良

読み方:チョウリョウ(chouryou)

初演 明治19.12(東京新富座)



古典文学作品名辞典

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張良

読み方:チョウリョウ(chouryou)

分野 幸若舞

年代 室町時代

作者 作者未詳


張良

読み方:チョウリョウ(chouryou)

分野 謡曲

年代 室町中期~後期

作者 観世信光





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