アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)
(ソ連のアフガニスタン侵攻 から転送)
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アフガニスタン紛争(アフガニスタンふんそう、ロシア語: Афганская война、パシュトー語: د افغانستان جگړه)とは、冷戦時代の1978年に成立したアフガニスタン民主共和国(アフガニスタン)と同国と軍事同盟を締結して介入・侵攻したソビエト連邦(ソ連)と、それらの政府の政策に反対して総決起したムジャーヒディーンと呼ばれるイスラム聖戦士の間で勃発した戦争である。また、冷戦中という特性上ソ連と対立するアメリカ合衆国(アメリカ)やイギリス等の西側諸国やパキスタン、サウジアラビア、イラン等のイスラム世界の国々、エジプト等の親米アラブ諸国、更には当時思想面でソ連と対立していた中華人民共和国(中国)などの一部の東側諸国もムジャーヒディーンを支援し、武器などを送る軍事援助やスパイを送っての政治援助などを行った事でも知られる。結果的にはムジャーヒディーン側の勝利に終わり、ソ連軍は撤退。同国の後ろ盾を失ったアフガニスタンも政権崩壊に追い込まれ、ムジャーヒディーンによる臨時政府が創られた。
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- 1 アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)とは
- 2 アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)の概要
- 3 概要
- 4 人民民主党政権への反発
- 5 反乱勃発と拡大
- 6 アフガニスタン武装勢力
- 7 紛争の継続
- 8 関連項目
ソ連のアフガニスタン侵攻
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「MiG-23 (航空機)」の記事における「ソ連のアフガニスタン侵攻」の解説
MiG-23が実戦活動を行った軍事行動の中で最もよく知られているのはソ連のアフガニスタン侵攻である。この戦争では戦闘機型のMiG-23も主として地上目標に対する攻撃任務に投入されたが、空中戦における戦果も報告されており、ロシアの情報に拠れば、MiG-23MLDがR-60によってパキスタン空軍のF-16A 1機を撃墜したとされている。パキスタンはこの損失を認めているが、自軍機の誤射によるとしている。パキスタン側はこの時の空中戦でMiG-23MLDを二機とも撃墜したと主張しているが、実際はMiG-23は二機とも帰還している。
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ソ連のアフガニスタン侵攻
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「Mi-24 (航空機)」の記事における「ソ連のアフガニスタン侵攻」の解説
1979年-88年にかけてのアフガニスタン侵攻の際、ソ空軍がMi-24を大量に投入して主にムジャーヒディーンに対する爆撃を行い、「ハインド」は一躍有名になった。アメリカ合衆国はこの戦争でムジャーヒディーン側に赤外線誘導式のスティンガーミサイルを供給し、多数のMi-24がスティンガーによって撃墜されている。しかし、スティンガーのない戦場では猛威を奮った。
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ソ連のアフガニスタン侵攻
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「アブドゥル・マリク」の記事における「ソ連のアフガニスタン侵攻」の解説
1982年 - 政府軍に召集され、ファーリヤーブ州で勤務 1983年 - 軍から脱走し、兄のラスール・パフラワンが指揮するムジャーヒディーン部隊に加わった。 1987年 - 「民族和平政策」時、ラスールとアブドゥルは、ムハンマド・ナジーブッラー政権側に移り、国軍に編入された。アブドゥルは、少尉の階級を得て、ラスールが指揮するウズベク人大隊(シリンタガブ郡)に勤務した。 1988年 - 大隊は、第511ウズベク人旅団に改編 1992年 - 旅団は、第511ウズベク人師団に改編 1992年 - 大佐に昇進し、副師団長となる。
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ソ連のアフガニスタン侵攻
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「ラシッド・ドスタム」の記事における「ソ連のアフガニスタン侵攻」の解説
1970年代初め、ジャラーラーバード市の空挺部隊に召集。1978年の4月革命まで、アフガニスタン北部のジョウズジャーン州の州都シバルガンの採油労働者だった。1979年から、アフガニスタン人民民主党党員となりパルチャム派に属した。1979年、地方の自警団に勤務。1980年代、ムハンマド・ナジーブッラー政権で軍務に就き、第53歩兵師団長となった。この間タシケントで、ソ連KGBの3ヶ月間の将校課程を受けている。同師団は、シャフナワーズ・タナイ国防相の反乱鎮圧に貢献した。
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