スペイン・バスクとは? わかりやすく解説

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スペイン・バスク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/23 02:04 UTC 版)

スペイン・バスク南バスクは、歴史的な領域としてのバスク地方におけるスペイン領土を指す際に使用される用語である。面積は17,625km2、2010年から2011年の調査に基づく人口は1,341,607人。




  1. ^ 1833年にナバーラ県という区分が成立したためである。
  2. ^ 「4つが1つ」というバスク民族主義者が用いたスローガンに由来する。
  3. ^ カスティーリャ王国の支配下にありながら伝統的にフエロ(特権/地域特別法)を有していたため。
  4. ^ a b c 立石博高・中塚次郎『スペインにおける国家と地域 ナショナリズムの相克』国際書院 2002年、p.151
  5. ^ LAURAK BAT”. EuskoMedia Fundazioa. 2014年8月1日閲覧。
  6. ^ Idoia Estornes Zubizarreta. “La Gamazada”. EuskoMedia Fundazioa. 2014年5月24日閲覧。
  7. ^ 狩野美智子『バスクとスペイン内戦』彩流社、2003年、p.26
  8. ^ 関哲行・立石博高・中塚次郎『世界歴史大系 スペイン史 2 近現代・地域からの視座』山川出版社、2008年、pp.387-391
  9. ^ ジャック・アリエール『バスク人』萩尾生訳 白水社 1992年、p.65


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スペイン・バスク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 00:45 UTC 版)

バスク地方」の記事における「スペイン・バスク」の解説

バスク・ナショナリズム」も参照 19世紀スペインでは国民国家形成進められ中央集権化均一化図られるとともに自由主義的な改革試みられた。同じ王国内にありながら法域異なって関税がかかる状況改めることは、バスク側にとっては中世以来さまざまな協定慣習によって守られてきた権利独自性を脅かすものにほかならなかった。1833年には社会制度経済構造維持唱えるカルロス5世と、自由主義標榜するイサベル2世との間での王位継承問題発端とする第一次カルリスタ戦争勃発しフエロ維持求めるスペイン・バスクは旧体制支持して自由主義勢力戦ったが、1839年敗北決定してスペイン・バスクのフエロ縮小された。1841年にはナバーラ県フエロ撤廃され数百の町がスペイン統合されナバーラスペイン化が完了したその後第二次カルリスタ戦争挟んで第三次カルリスタ戦争起こり1876年7月21日法でバスク地方フエロ実質的に撤廃された。バスク地方スペイン国家の中の一地域位置付けられ納税兵役義務課せられた。関税境界バスクスペイン境界からスペイン・フランス国境移動し、スペイン・バスクとフランス領バスク分断した。このためパンプローナバイヨンヌを結ぶ歴史ある街道分断されバスク内陸部潤していた旨みのある密輸商売消滅したが、バスク沿岸部比較恵まれていた。また、工業発展遂げた19世紀末バスク地方には他地域から労働者多数流入し1900年時点ではビスカヤ県ギプスコア県アラバ県バスク3県における人口の6割が他地域出身者となったバスク地方では非バスク語化が進行しバスク人伝統的価値観規範脅かされた。 「バスク民族主義の父」と呼ばれるサビノ・アラナバルセロナ大学で学ぶうちにカタルーニャ・ナショナリズム共感しビスカヤ地方精神的独立復活訴えて政治活動開始したアラナは「血族言語バスク語)、統治と法(フエロ)、気質習慣歴史的人格」の5つバスク民族独自性定義づける要素挙げ、特に血の純潔によってバスク人スペイン人優越するとした。1895年にはバスク民族主義党(PNV)が設立されアラナ主張近代的工業化から除外され中小ブルジョワ層に受容された。アラナ分離主義ではなく地域主義者であると主張し、名称(エウスカディ)と旗(イクリニャ)を持つ、7地域 がひとつにまとまった国を提起した初期バスク・ナショナリズムは反工業化唱え第一次世界大戦後には近代化余波が及び始めた農村部にも伝播ていった初期バスク・ナショナリズムバスク地方独立分離訴えたが、やがてスペイン国家内での地方自治訴え変化していった。 1931年には第二共和政成立しバスク民族主義党カトリック基調とし、バスク4県をほぼ独立した国家として扱うエステーリャ憲章バスク自治憲章案)を採択して国会提出したが、特にスペイン社会労働党(PSOE)による反対運動廃案となった。この一方で1933年にはカトリック基調としないバスク自治憲章案(修正版)がナバーラ県を除くバスク3県の住民投票によって承認されバスク歴史上初めアラバビスカヤギプスコアの3県が法制的にまとめられた。第二共和政下では各政治勢力主張交錯しバスク民族主義党アラバ県ナバーラ県支持取り付けることに失敗したことで、バスク地方自治実現遅れたとされる1932年には「祖国の日」が制定されバスク地方では例年復活祭同時期にバスク国復活祝われている。1936年には共和国議会バスク自治憲章公布認められホセ・アントニオ・アギーレレンダカリ政府首班)とするバスク自治政府承認された。バスク自治政府バスク大学設立着手しグアルディア・シビル治安警察)やグアルディア・アサルト(治安突撃隊)を解体してバスク警察設立しバスク軍再編した1930年代後半スペイン内戦では、ビスカヤ県ギプスコア県バスク民族主義党共和国側に立ってフランシスコ・フランコ反乱軍戦ったが、アラバ県ナバーラ県反乱軍味方したナバーラ王国を継ぐナバーラ県バスク地方中心的存在だったが、ナバーラ県内の住民投票でもバスク3県への併合拒否してバスク3県から分離された。1937年4月にはバスク自治象徴であるゲルニカが、反乱軍組んだドイツ軍によるゲルニカ爆撃を受け、1937年6月にはバスク軍最後拠点であるビルバオ陥落したバスク自治政府支配領域をすべて失い政治的独立試み頓挫し亡命政府となったスペイン内戦では15万人上のバスク人難民となり、その後フランコ政権下ではバスク語使用禁止イクリニャバスク国旗)の掲揚禁止などの政策取られた。1946年にはアギーレニューヨークでバスク亡命政府編成し亡命政府バスク民族主義党主導したビスカヤ県での労働争議功を奏したが、反共産主義立場を取る西側勢力フランコ容認するようになり、1960年アギーレの死もあってバスク亡命政府政治的影響力低下させた。1952年地下組織として結成されたEKINは、バスク民族主義党青年部から分離したグループなどを加えて1959年バスク祖国と自由(ETA)に発展しバスク語民族語としての擁立バスク大学創設などバスク民族政治的自立民主的諸権利認知訴えた発足当初ETA民族文化復興運動団体色彩強かったが、やがて政治的独立掲げ集団主流派となり、1968年には武力闘争開始され世界的に知られるようになったそれまで穏健派バスク民族主義党バスク・ナショナリズム運動独占していたが、ETA登場状況変わった1960年代末には全国的にフランコへの反体制運動高まり1970年代になるとバスク民族主義党保守層の支持背景組織拡大した

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バスク地方」の記事における「スペイン・バスク」の解説

バスク州#歴史」も参照 1975年フランコ死去するスペインでは民主化への移行英語版)が開始され1978年には国民投票が行われてスペイン1978年憲法現行憲法)が制定された。憲法にスペイン国家の不可分一体性明記されバスク人民族構成するには至らない民族体と位置付けられたが、1979年にはスペイン国会ゲルニカ憲章英語版)(バスク自治憲章)が承認された後に住民投票でも承認されアラバビスカヤギプスコア歴史的3領域自治組織としてのバスク自治州発足した憲法の規定ナバーラ県バスク州への統合が可能とされたが、結局1982年単独ナバーラ州昇格したバスク人ナバーラ人の分離スペイン政府意図するところであり、バスク地方スペイン国家の係争解決向けた大きな障害となっている。ETA1968年暴力活動開始以後800人以上を殺害し1990年代頃にバスク経済一定程度回復するテロリズム克服バスク地方最大懸念事項となったが、2000年代後半以降には軍事的政治的に弱体化したとされている。2003年にはバスク民族主義党フアン・ホセ・イバレチェゲルニカ憲章改正案(イバレチェ・プラン(英語版))をスペイン国会提出してバスク地方自治拡大狙ったが、スペイン不可分一体性崩しかねないこのプランスペイン下院否決された。

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