ジロ‐デ‐イタリア【(イタリア)Giro d'Italia】
ジロ・デ・イタリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/20 08:17 UTC 版)
ジロ・デ・イタリア(伊: Giro d'Italia)は、毎年5月にイタリア全土を舞台にして行われるプロ自転車ロードレース。1909年から開催されている。主催はイタリアのスポーツ紙『ガゼッタ・デロ・スポルト』等を発行するメディアグループ・RCSの関連会社であるRCSスポルト社。
- ^ 「d'Italia は di Italia が縮まったもの。発音上「イタリア」を分離する場合、diの代わりに方言/古語であるde(デ)をわざわざ用いるのは無理がある。「ディ」が日本語になかった音であるために「デ」に改めた可能性は考えられるだろう。なお、スペイン語ではGiro de Italiaだが、発音は「ヒーロ・デ・イタリア」である。
- ^ 2007年は第17ステージで距離10km、平均斜度11.9%、最大斜度22%というゾンコラン山への登り坂が設定された。これはツール・ド・フランスで有名なラルプ・デュエズと比較して距離こそやや短いものの平均斜度は1.5倍、最大斜度は約2倍となっている。
- ^ 1956年にはモンテ・ボンドーネで猛吹雪が発生し40人以上がリタイア。1988年にはガビア峠で吹雪となり、ゴールした選手が次々に倒れる事態となった。また1995年にはアグネロ峠で雪崩が発生、先行するキャラバン隊が巻き込まれコースが短縮になるなどの事件が発生している。
- ^ [1] - CyclingNews.com (英語)
- ^ 延期開催の2020ジロ・デ・イタリアが修正コースを発表 Cycle Sports 2020年7月31日。
- ^ インテルジロ賞が行われていた頃は中間スプリント地点が存在せず、ゴール地点のポイントのみでスプリント賞が争われた為この傾向がさらに強かった。
- ^ 2009年に至っては、ポイント賞の上位3人の顔ぶれがマリア・ローザ争いの上位3人と全く同じだった。さらに4位のステファノ・ガルゼッリもマリア・ヴェルデを獲得しており、純粋なスプリンターといえる選手でトップ10に入ったのは5位のアレッサンドロ・ペタッキと8位のアラン・デイヴィスくらいだった。更に2010年ではトップ10の内容がパンチャー2人、オールラウンダー6人、クライマー2人であり、スプリンターらしいスプリンターはゴール地にすらほとんどたどり着かなかった。
- ^ ジロ・デ・イタリア2014注目選手:各賞ジャージ マリアロッサ、アッズーラ、ビアンカ ジロを彩る特別賞ジャージ候補 - シクロワイアード 2014/05/08 - 20:28
- ^ かつては同一カテゴリーの山には同じポイントが配分されていたが、純粋なクライマーでないにもかかわらず序盤から飛び出してコース前半の山岳ポイントを狙う逃げ屋対策として近年ではコースの最後に置かれた山岳ポイントに限り倍の点数が与えられるなどの補正が行われることがある。
- ^ 開催年から25を引いた年以降に生まれた選手が対象。開催時に25歳であっても、開催年中に26歳になる選手は対象外。
- ^ 『2001ジロ・デ・イタリアのすべて』52P マッシーモ・ストラッツェールのインタビューより
- ^ 上述の理由によりアルベルト・コンタドールの総合優勝は無効とされたためスカルポーニが繰り上がって総合優勝者に認定された。
- ^ DAZN、'20年は自転車ロードレースのUCIワールド/ヨーロッパツアー配信せず AV Watch 2020年1月20日。
- ^ GCNでレースの生配信を視聴するには? GCN Japan
- ^ Race Pass Schedule – Japan
- 1 ジロ・デ・イタリアとは
- 2 ジロ・デ・イタリアの概要
- 3 各賞とリーダージャージ
- 4 歴代総合優勝者
- 5 区間優勝回数
- 6 参考文献
ジロ・デ・イタリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 21:01 UTC 版)
ジロ・デ・イタリアはツール・ド・フランスよりも山岳コースの設定回数が多く、またツール・ド・フランスより山岳コースの難度が高い傾向がある。そのため山岳が得意な選手に有利な大会とされる。場合によっては短距離ではあるが山を登るだけのステージもあり、ツールのように山でのロスを防ぎTTで勝負という展開には持ち込みにくい。 またツール・ド・フランスにおいてはポイント賞はスプリンター型の選手が獲得するのが常だが、2013年までのジロ・デ・イタリアは平坦と山岳を区別しないポイント制度であったため、総合成績上位のクライマーやオールラウンダーの選手が獲得するケースも少なくなかった(2020年までのブエルタにも同様の傾向があった)。 1970年代から1990年代半ばの総合優勝者については選手の国籍が多様化していたが、ブエルタ・ア・エスパーニャが1995年に従来の春開催から夏場の開催へと移行したことやツール・ド・フランス7連覇中時代にランス・アームストロングがジロを回避しツール一本に照準を定める形を取っていたことから、それに倣う選手が増加しはじめた。ちなみに1996年に優勝したパヴェル・トンコフ(ロシア)以降、2008年にアルベルト・コンタドール(スペイン)が優勝するまでイタリア国籍以外の優勝者が出ていなかった。
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ジロ・デ・イタリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 02:46 UTC 版)
「ジュリオ・チッコーネ」の記事における「ジロ・デ・イタリア」の解説
序盤のステージから山岳賞ポイントを積極的に獲得。第16ステージではジロ・デ・イタリア通算2勝目となる勝利を挙げる。 最終的に、2位のファウスト・マスナーダ(115ポイント)に大差をつける267ポイントを獲得し、山岳賞マリアアッズーラを手中に収めた。
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ジロ・デ・イタリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 13:52 UTC 版)
「アルベルト・コンタドール」の記事における「ジロ・デ・イタリア」の解説
3年ぶりに出場したジロ・デ・イタリアでは、好調のミケーレ・スカルポーニと、前年のブエルタ・ア・エスパーニャ総合優勝者であるヴィンチェンツォ・ニバリとの三つ巴戦が予想されたが、エトナがゴールの第9ステージで2人を圧倒して区間優勝を果たしてマリア・ローザを奪取すると、その後のモンテ・ゾンコランやセストリエーレなどの山岳コースゴール区間でも安定した走りを見せ、何と総合2位のスカルポーニに対し6分10秒ものリードをもって総合優勝。ポイント賞も併せて獲得した。また、山岳賞部門でも、第13、14STで首位に立ち、両区間では3部門で首位を経験した。そしてこれで、グランツール出場機会6連続優勝を果たしたが、後にドーピング違反の出場停止期間中とされ優勝は剥奪となった。
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ジロ・デ・イタリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/15 20:37 UTC 版)
「グロースグロックナー山岳道路」の記事における「ジロ・デ・イタリア」の解説
これまで自転車レースのジロ・デ・イタリアで、1971年(第17ステージ)と2011年(第13ステージ)の2回、登場している。
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