ジョホール王国
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ジョホール王国(ジョホールおうこく、英語: Johor Sultanate、または、ジョホール・リアウ(Johor-Riau)、ジョホール・リアウ・リンガ(Johor-Riau-Lingga)、公式にはジョホール・スルタン国(ジョホールスルタンこく、英語: Johor Sultanate、マレー語: کسلطانن جوهر))は1528年に成立したマレー半島南部を本拠とする港市国家で、マラッカ海峡両岸(現在のマレーシア、シンガポールおよびインドネシア)におよぶ海上帝国を築いた。マラッカ王国を継承したマレー人による国家でイスラーム教を奉じ、18世紀前半の政変を経て、王都はリアウ諸島のビンタン島(現インドネシア・リアウ諸島州)に遷された。現在のマレーシアを構成する州のひとつであるジョホール州として現代につらなる王国であり、今日も世襲のスルタンによって王位が継承されている。
注釈
- ^ マギンダナオ王国が栄えたミンダナオ島の一部は、キリスト教徒の多い現在のフィリピンのなかでもイスラームの信者が多い地域となっており、フィリピンでは「イスラム教徒ミンダナオ自治地域」(ARMM)として一定の自治を認めている。
- ^ ミナンカバウ王の祖先はスマトラ島を創成したと広く信じられており、水界を制する霊力をもち、大地を統べる存在として尊崇されていた。歴代のパガルユン王は、スマトラの「山の王」を自認し、雲を支配し、黄金を司る力をもっていると唱え、大蛇を制したとされるスマンダン・キニを家宝として相伝した。弘末(2004)p.101
- ^ パガルユン王国は、1347年に建国されたミナンカバウ人の王朝。パドリ戦争中の1833年に滅んだ。
- ^ ラジャ・クチルは、ジョホール王として「アブドゥル・ジャリル・ラフメット・シャー」を名乗ったが、本項では新スルタンのアブドゥル・ジャリル(=アブドゥル・ジャリル4世)とまぎらわしいので「ラジャ・クチル」の表記で統一する。
- ^ ガンビール(ガンビールノキ)は、アカネ科のつる植物。その葉を煮詰めてタンニンを抽出し、薬用として、あるいはペテール・チューイング用に用いられた。弘末(2004)p.40
- ^ 18世紀後葉の英仏両国は、ヨーロッパ大陸では七年戦争(1756年-1763年)、北アメリカ大陸ではフレンチ・インディアン戦争(1754年-1763年)、インド亜大陸ではプラッシーの戦い(1757年)をそれぞれ戦った。いずれの戦争もイギリス側優位で終結した。
- ^ イギリスはナポレオン戦争終結後、占領したジャワ島をオランダに返還した。当時のイギリスははじめ東南アジアに進出する考えはなかったものとみられる。しかし、ラッフルズは本国政府のこうした態度に不満だったため、シンガポール島上陸を強行したのである。石澤&生田(1998)pp.388
- ^ 「海峡植民地」には、1886年からココス諸島とクリスマス島が、1906年にラブアン島がそれぞれ編入されている。
- ^ ピレス『東方諸国記』には、ムラカの港市には、カイロ・メッカ・アデンのムスリム、アビシニア人(エチオピア人)、キルワやマリンディなどアフリカ大陸東岸の人びと、ペルシャ湾沿岸のホルムズの人、ペルシャ人、ルーム人(ギリシャ人)などを列挙したうえで、「62の国からの商人が集まり、84もの言葉が話されている」と記している。尾本(2000)
出典
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